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2月11日

悪魔のわざを打ち破るため

Iヨハネ3:4-10

武安 宏樹 牧師

本書の流れをおさらいすると、一つ目に神とキリスト者との「タテ」の関係。罪の存在を否定し自分から肉体を切り離して、霊的体験で救われると偽装し、その暁に罪を犯しても構わないと惑わす、不法の輩「反キリスト」がいる一方、神の前に自分の罪を認めて、キリストの赦しの中を歩み続ける信者がいます。つまり罪は無いと言いつつ奴隷となる者と、罪に敗北しているように見えて実は勝利している者という逆転現象で、キリストの救いは恐ろしく公平です。されど救われてからの過程は、賜物と献身の違いで各人各様の成長をします。二つ目に「ヨコ」の関係。霊性は個人的&神秘的に非ず互いに愛し合うことが、バロメータとなります。偽り者は自己愛に熱心でも隣人愛で馬脚を現します。

本日の箇所は以上を踏まえて読むなら、罪と聖化の関係に目が開かれます。4節「罪」の一つ目は定冠詞単数で、一つの罪を犯しても不法の誹りを免れず、二つ目は無冠詞単数から、人の罪の性質や存在がそもそも不法だと示します。パリサイ人の如く小細工で律法を守るとか、金や善行では無罪になりません。5節「罪」の一つ目は定冠詞複数で、主は世の全人類の罪全てを取り除くため、二つ目は無冠詞単数から、キリストは存在的に人と違って罪は見出せません。かくて6節「凡そ主に居る者は罪を犯さず、凡そ罪を犯す者は未だ主を見ず、主を知らぬなり」(文語)となりますが、8節「罪をおこなふ者は悪魔より出づ」罪を犯して転落、悔い改めで復帰を繰り返し、不安に囚われないでしょうか。

日本語に訳出されませんが、6節「とどまる」「罪を犯しません」「罪を犯す」8節「罪を犯している」(2回)9節「罪を犯しません」「とどまっている」「罪を犯す」10節「義を行わない」「兄弟を愛さない」以上は継続を表す現在時制ゆえ、キリストにとどまるにも罪を犯すにも、いずれに帰依するか意志が必要です。偽り者は真理を知りつつ意識的に不法を生き甲斐とし、確信犯的に罪を犯し、教会に潜入して未成熟な信者を引き抜こうと、羊の皮を被った狼のようです。私たちは習慣的に犯す罪があるかも知れない。これでは救われないのでは?たしかに罪を犯せば聖霊が悲しまれ、託された証しの務めが止められますが、贖い主の証印は病根を断ち、悔い改めで「打ち破り=解放」を日々体験します。

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