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礼拝メッセージ

9月27日

パンが裂かれたときに
ルカ24:13-35
河崎 ダニエル 宣教師
今日の聖書の箇所はイエス様が十字架で死んだのち、三日間、墓に埋葬されてから起こる出来事です。エマオに向かう二人の弟子たちが復活したイエス様に会った時、イエス様に起こったすべてのことや、女性たちから聞いたことを理解しようとしていました。イエス様が、彼らの会話に入ってこられたのはこの時です。イエス様の死と復活を踏まえて旧約聖書を読み返すと、苦しみと栄光への入り口というテーマが聖書の話の中心であることがわかります。

1. 旧約聖書に照らしてキリストの苦しみと栄光へ上げられることを理解する
旧約聖書の話と、それらが新約聖書のキリストの死と復活、苦しみと栄光のテーマは結び付いています。 使徒の働き2:22-36でペテロは、詩篇16篇の「敬虔な者に滅びをお見せにならない」を引用して語っています。「敬虔な者」とは、「聖なる方」の意味です。神様は聖なる方の体が朽ちるのを許すことはなさいません。続いてペテロは、イエス様が神様の御心に従順さをもって従われたため、神様は栄光を与え、天の御座を与えられました。と語っています。イエス様は苦しみ、そして栄光を受け、復活されました。これが、イスラエルの民が待ち望んでいた新しい王国でした。二人の弟子たちは、メシアが死んで、死から蘇るとは想像できませんでした。そこでイエス様は座って一緒にパンを分けたのです。

2. パンを裂くときに復活したキリストを認識すること
ルカ24:30-31ここで、イエス様がパンで行った四つの行動に注目してください。イエス様はそれを取り、祝福し、裂き、そして与えた。最後の晩餐(ルカ22:19)、五つのパンと二匹の魚(ルカ9:16-17)この二か所にも同様の行為がみられます。パンはイエス自身の体を表したもので、裂かれ、多くの人々に力を注ぐために与えられることがわかります。そして、この裂かれた体や、イエスが十字架で経験した大きな苦しみが、復活の栄光へとつながっていくことがわかります。

3.復活した主と共に日々の生活に立ち向かうこと
まず苦しみなくして栄光はありません。壊れなければ変身はありません。しかし主が私たちと共にパンを分けてくださるとき、私たちは主と共に、どんな困難も乗り越えられることに気づきます。
9月20日
盗んではならない
出エジプト20:15
武安 宏樹 牧師
十戒の前半と後半を要約すると、主への愛と隣人への愛となり(マタ22:37-40)、二つの交点は主の十字架であり、「互いに愛し合いなさい」=「新しい戒め」で、まさに11番目の戒めであり十戒全体の総括。原語「愛」は神の愛を表す語です。主イエスの「わたしがあなたがたを愛した」は不定過去時制で完成された愛、弟子たちへ「互いに愛し合いなさい」は現在時制で継続的に努めて愛する意。ユダ離脱後11名に丸投げではなく、主が12人目の支援者として完全な愛を、供給すべく臨在されます。神の愛をもって愛し合うなら主も共に居られます。私たちも愛し合う共同体の底力を、悔い改めと和解から体験したいものです。本日午後はリフォーム感謝会ですが、完成にいたるまで4年半の道筋の中で、時に激論を交わしながらも、主からの愛し合う訓練を正面から受けてきたか。あきらめたり開き直ったりせず、無力を認めて御前に進み出て祈ってきたか。価値観の異なる人や目立たない人にも、謙遜に耳を傾けて配慮をしてきたか。このように完成したのは主が導かれた結果ですから、素晴らしいことですが、私たちは取り組む過程が大事です。新会堂をきよい愛で喜んで用いましょう。

教会の所有者は神、主権者はキリスト、執行者は聖霊で、三位一体ですが、世の中から見て集う信者たちは何をやっているかと言えば、「愛」の実践です。この教会に「愛」があります。第一義的に私たちの努力としての愛ではない。それ以前に教会と信者には、キリストの尽きること無い愛が注がれており、不信仰&不従順や屈折した霊性で遮断しなければ、私たちに愛は注がれます。世の人々には無い愛の潜在能力が私たちには有る。他所との比較ではなく、聖書から真の愛が語られ実践されているのは、世の中で教会しかありません。地上では籍を有する共同体として、天からは御国の直轄領として統治されて、常に世と対峙します。主イエスは終わりの時に「多くの人の愛が冷えます」と語りました(マタ24:4-14)。まさに今の世であり、惑わしの霊と戦争と災害が、一体となって襲います。悠長に愛など語り抵抗するなら非難の的となります。私たちの愛が冷え込んで、教会が暗くなる。弟子たちが実際にそうでした。けれども主ご自身の愛はいささかも変わらず、淡々と十字架に歩を進めます。私たちに注がれるとりなしは尽きず(17:)、愛を希望をもって貫きましょう。
9月13日
むさぼってはならない
出エジプト20:17
武安 宏樹 牧師
第10戒は、第6~9が具体的行為に現れた罪に関する戒めであるのに対し、むさぼりの意志=心の中の罪であるのが異なります。「あらゆる罪悪の根源」とルターが言うように、他の全ての罪の底に流れる、最も根本的な罪であり、ダビデ(Ⅱサム11:)とアハブ(Ⅰ列21:)に見られ、偶像礼拝と同じです(コロ3:5)。欲望が導火線となって、偽証・盗み・姦淫・殺人が起る。不満足・羨望・嫉妬、この欲望の波をだれが制御できるのか。最後がむさぼりの禁止ということで、十戒が結局内面的なのだと分かります。自己中心=罪とは、厳しい要求です。この避けがたい罪に向き合う時に、私たちは第10戒→第1戒に戻されます。つまり自分が創造主と結ばれている幸いを見上げて、信頼することでしか、解決の道がないことを十戒は示しています。「律法主義」はナンセンスです。 私たちは律法に「死んだ」者(ロマ7:4-6)。原文の過去時制&受動態が示す通り、「キリストにあって」死んだ=殺された者で、私たちが御霊の満たしに歩む時、むさぼりから、殺し&盗み&姦淫&偽証から、偶像礼拝から解放されます。キリスト無しには神ののろいの下むさぼるのみ、何と空しい人生でしょうか。

欲望の結末は世界も私もあなたもオシマイと、世の人々も気づいています。残念なことにキリスト教国とユダヤ教国の代表が、強欲と戦争に明け暮れて、一時代前はモラルで歯止めがかかったことが、制御不能で底が抜けています。キリスト者はどのように隣人愛に生きるか。欲望のベクトルを禁欲ではなく、違う方向に向けなければなりません。パウロは霊的な事柄と知っていました。バベルの塔は罪人の知恵と財を結集し、人が神になるために建設されました。神は降りて来られ悪しき計画を粉砕しました。対する聖霊は一つ所に集まる弟子たちに注がれて、全世界に福音を宣べ伝えて教会が全地に建てられます。私たちの使命は世と罪と悪魔との戦い。悪魔は「心」理戦を挑んできますが、私たちは「真」理戦を行います。詩篇作者はむさぼるように御言葉を慕い求め、雅歌作者はむさぼるように神の愛を求めます。主は私たちを禁欲の奴隷でも、権力者に隷属でもなく、いくら汲んでも尽きない泉から飲めと仰せられます。聖霊は知性をフル回転してキリストに根差した祈りから、全ては始まります。私たちは何が出来るかでなく、どう在るか。聖霊の恵みをむさぼりましょう。
9月6日
偽証してはならない
出エジプト20:16
武安 宏樹 牧師
「嘘つきは泥棒の始まり」あるように、私たちの諸々の罪の入口が偽りです。真実な神は偽りを許さないため、神のものとなったキリスト者が偽るとき、内なる霊が悲しまれます。周囲の評価を恐れるのも日本人特有の弱さです。正しくなくともみながよければ、物事が円滑に運んでしまう社会だからです。第9戒は偽証で、隣人の名誉を守ることを命じ、前半の第3戒と対応します。神にいつも偽って誓う人が、外圧に屈せず隣人の名誉を守るなど不可能です。反対に神は私たちと偽りの契約を結んだり、日頃の行いで契約解除しません。神の御性質が真実である中に、救いの選びの確かさと堅忍が含まれています。ペテロは主を否認するという失態を犯しましたが、彼はペンテコステの力を受けて変えられた。聖霊の火を受けて、偽りを語る舌がきよめられたのです。

「わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに、手を貸さないこと。かえって、あらゆる嘘やごまかしを、悪魔の業そのものとして、神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、裁判やその他のあらゆる取引においては真理を愛し、正直に語りまた告白すること。さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とを、わたしの力の限り守り促進する、ということです。」(ハイデルベルク信仰問答112)

私たちが個人的&社会的に偽りに手を染めず、真実に生きることは難しく、「偽証せず、言葉を曲げず、中傷せず、手を貸さず、嘘やごまかしを遠ざけ」より「真理を愛し、正直に告白、隣人の栄誉と威信を促進」積極面の方が訓練容易で神との関係が真実なら人に対しても真実になります。神が最高の計画により、創造された私という存在を喜び受容しているか、セルフイメージの健全さに、因ります。嘘を多用する人の特徴にコンプレックスや歪んだ敵意があります。神から無条件の愛を受けて謙遜に生きる者は、悪魔的な心理には陥りません。自己愛に根差す者が周囲の承認を得るため、背伸びして自分を偽装するのは、第10戒の貪りと密接な霊性です。キリスト者として真実に生きていますか。「わたしが道であり、真理であり、いのち」(ヨハ14:6)イエスの道を受け入れた、わが国1%の私たちのみ、偽りの霊に臆すること無くノーと言える人種です。