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礼拝メッセージ

3月8日

イエスから目を離さないで
へブル12:2
武安 宏樹 牧師
1~2節は切れ目無く原文がつながり、闇雲に罪も重荷もかなぐり捨てて、一心に走ればよいのでなく、目が何処を見て目標を定めているかが大事です。漠然&漫然と食うため生きる人よりも、夢を持っている人は活気があります。「故に,夢無き者に成功無し」(吉田松陰)幕末の名言ですが列強に追いつけと、開国から半世紀足らずで戦争に連勝で勘違いしたか、最後は原爆投下で終焉。いったい人間の夢とは何なのか、国家に自分の野望を重ねる為政者もいます。しかし自分の夢や野望に基づく道は、必ずどこかで切れて行き止まりとなり、にもかかわらず強行突破を図る者に破滅が待っています。何故でしょうか?全能の神が御手を動かされて、己を神とする人間の暴走を許さないからです。ペテロは主の昇天後最初の説教で、ヨエルの預言を引用します(使2:14-40)。青年の「幻」&老人の「夢」は、あなたがたが愚かにも殺したイエスのことだと。「しかし神は,イエスを死の苦しみから解き放って,よみがえらせました」今や私たちは自己実現の罪の道から解放され、二度目の人生を生かされています。「目を離さないで」単に凝視でなく、信頼に基づき他を排除する強い意味です。

主イエスを「ガン見」せよ、そうすれば他はどうでもよいということです。なぜなら「信仰の創始者であり完成者である」から。主イエスは創造以前から、父なる神を心から信頼し聖い交わりを持たれ、地上の苦難でも不変でした。「指導者」(脚注)とあるように、今も私たちの半歩前を背中を見せて共に走り、ゴール時には向き直って御国に迎え入れてくださる。ゆえに「完成者」です。主イエスの道を走れば行き止まりにならず転落せず、完走できます(ヨハ14:6)。皆さんはそのように走っていますか。隣の走者に足をかけられたと恨んだり、ケガをして断念していませんか。弱い者のために主は力と目的といやしとを、与えます。主イエスは父編も信仰によって、苦難の道自体を喜んでいました。人は自分の人生を神が与えし道と喜ぶことで、次々と新しい道が開かれます。苦しみを乗り越えるたび人は成長しますが、自分の力では我が強くなります。人生に責任を取ることができ、最後まで付き合ってくださるのは主だけです。目標が何かで人生は変わります。キリスト者は主を超えることは出来ません。けれども主の居られる所まで確実に到達する。ここに夢と希望があるのです。
3月1日
捨てて、走り続けよう
へブル12:1
武安 宏樹 牧師
本章始めに「こういうわけで」は、前章の信仰者列伝全てを受けての意です。人生はマラソンとよく言われます。どれだけ長い道のりも一歩一歩進むなら、ゴールにつながる意で、努力とか諦めない心とか継続とか、以上積み重ねが、人生に似ているとの格言で用いられます。斜に捉える見方も多数ありますが、結論から言うと「信仰人生はマラソン」と断言して差し支えないと思います。

一つ目に、「多くの証人たちが,雲のように私たちを取り巻いている」こと。通常マラソンは孤独な競技で、沿道に観客や後方に監督&コーチの伴走車が、ついていても結局は自分が走って、その結果が自分に帰ってくるものです。「多くの証人たち」は観客兼伴走車で、この世ではなく天国から「雲のように私たちを取り巻いて」、キリスト者に内在する御霊を通して彼らは息づいて、流された血潮の数々がDNAとして、私たちの体内に循環し走り続けます。傍から見れば孤独でも、当人は孤独を感じず意気揚々「団体競技」なのです。

二つ目に、「一切の重荷とまとわりつく罪を捨てる」こと。前章39節から、「証人たち」「私たち」が対照され、彼らと同様に私たちも余計なものを捨てて、悔い改めて走ることです。「塩狩峠」主人公信夫は神と隣人を愛する者として、暴走する客車を止めんと自ら轢死し、その結果が友人の救いに繋がりました。世の中で終活の一環として断捨離を行いますが、キリスト者は信じた時から、常に断捨離を迫られ、清貧以前に主を愛するために足枷となるものを捨てて、出来るだけ身軽な走者となり、肉の自分の執着から解放されるのが聖化です。

三つ目に、「自分の前に置かれている競走を,忍耐をもって走り続けよう」。マラソンは同じコースを競い合い、賞は一人です。同じ出世コースと見れば、主の弟子たちのように醜悪さが出てきます。主だけを恐れ、与えられた道筋を辿ることだけに集中するには高い信仰を要します。主からいただいた恵みを、自分の存在意義と賜物として受け止め、競争ではなく他の人に仕えるために、磨きをかけることだからです。「忍耐」には積極的にゴールに突き進む意味が。私たちは道筋を求め、天のゴールまで走り続ける中でハッキリ見えてきます。
2月22日
もっとすぐれたものを
へブル11:39-40
武安 宏樹 牧師
本章の信仰者列伝最終回。「約束されたものを手に入れることはありませんでした。」(39節)それ自体が目的地でなく、報いを引き出す取引なのでもなく、生前に何かを達成したわけではないのに、神を信頼することを止めなかった。私たちは人間的な思いとして、この世で何かを遺したいと願うのが普通です。学校では成績、企業では役職、老後には子や孫のため財産や家を遺したいと、そう思うこと自体は不信仰ではなく、神は善きにつけ悪しきにつけ報います。キリスト者も例外ではなく、証しや奉仕など神の主権に拠るべきことさえも、伝道や祈りや企画の見返りに、人が救われたり良い影響が及ぼされる期待が、ゼロではありません。究極的に信者の価値基準や教会の指標とは何だろうと、ここ半世紀は宣教学で教会成長論の興隆で、数値&分析的視点が強まるなど、善し悪しです。自分の願いにせよ周囲の期待にせよ、その通りならなくても、まして神ご自身が約束されたことが果されなくても、神のことばの真実だけ、信頼することができるでしょうか。「しかし,たとえそうでなくても」(ダニ3:)敵対する「神々」は、因果応報の人間的価値観に落とし込もうとするのです。

人間的な思いに優るものは何か?どうしたら「もっとすぐれた」神の恵みを受けられるのか?一言で言えば苦難です。「あなたがたの信仰は,火で精錬されてなお朽ちていく金よりも高価であり」(Ⅰペテ1:)試練の火で精錬されると肉の不純物が削ぎ落とされ内なるキリストが残ります。炉の中を7倍熱くし、三人が放り込まれたら、何の害も受けずに縄を解かれ自由に歩いているのが、キリスト者の真実です(ダニ3:/イザ43:2)。ペテロ自身も放火犯に仕立てられ、悪名高きネロ帝時にパウロと共に殉教。以降10大迫害が250年も続いた後に、帝国公認&国教化で世界最大の宗教に発展しますが、保護されると弱くなり、逆に共産党下の中国や、命の危険を犯すイスラム圏のように強く伸長します。日本も豊臣~徳川時代に陰惨で徹底した弾圧を行い、その恐怖が影響したか、戦時下の教団総督は世に屈して、伊勢神宮参拝と戦勝祈願の罪を犯しました。今日を生きる私たちが求めるべき、「もっとすぐれたもの」とは何でしょうか。先達が通されたような苦難から、内なるキリストが剥き出しになりますが、未だ知らない「生」で「ガチ」な、「もっとすぐれた」霊の呻きを共に見ませんか。
2月15日
この世は
へブル11:35-38
武安 宏樹 牧師
35節「死んだ身内の者たちをよみがえらせて」エリヤ&エリシャの信仰からツァレファテの貧しい婦人と、シュネムの裕福な婦人の子らを生き返らせて、彼女たちの信仰は奇跡で応えられます。奇跡は全能の神の主権に因るもので、半信半疑や興味本位は駄目ですが、折に適って起こることを期待しましょう。ところが後半部は「よみがえり」でも、「もっとすぐれたよみがえり」があると。旧新約の間には400年の中間時代があり、捕囚から帰還を命じたペルシャは、アレクサンダー大王に征服されギリシャ文化が持ち込まれます。彼の死後は、部下たちが争いながらイスラエルの主権も二転三転、セレウコス朝シリアのアンティオコス・エピファネス王は、ユダヤ人に対し壮絶な迫害を行います。

「王は,すべての人々が一つの民族となるために,自分の慣習を捨てるよう~要するに律法を忘れ,掟をすべて変えてしまうということで,従わない者は死刑に処せられることになった。契約の書を隠している,律法に適った生活をしている者は,処刑された。悪人たちは町々で暴行を加えた。イスラエル人の多くは屈せず,契約に背くより死を選んでいった。兄弟たちは励まし合い『主なる神が私たちを見守り,真実をもって憐れんでくださる』母親は7人の息子が惨殺されるのを直視しながら,喜んでこれに耐えた。」(マカベヤ書抜粋)後に王は悔い改めるも時すでに遅く無残な死を迎えます。ユダヤ人と聞けば、ガチガチのパリサイ人を想像しますが、彼らは文字通り律法を死守しました。

「我々が今日信仰を持つことができるのは,この人たちが死をもって信仰を守り通したからである。」(バークレー)暗い中間時代の襷がキリストの十字架へ。奇跡を見るよりも迫害を受ける方が、確実に一粒の麦が落ちて拡散するので、自分が死んでも後に大収穫を天から見て主に喜ばれます。36節はエレミヤ、37節はエホヤダの子ゼカリヤ、マナセに切断されるイザヤ、エレミヤの同士ウリヤ。38節「この世は彼らにふさわしくありませんでした」それはそうです。世は悪魔の支配下にあり、キリスト者の存在は奴に吐き気を催させるのです。「実は文明社会の方が彼らにはふさわしくなかったのである。神への信仰はこの世の安楽を保証しない。しかし究極の世界で『報酬』をもたらす。」(ブルース)