愛宕山教会・今村キリスト教会

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礼拝メッセージ

7月6日

はるかにすぐれた奉仕
へブル8:1-6
武安 宏樹 牧師
私たちはどのように奉仕しているか、月間予定でローテーションを組まれ、最初は自分の如き者が相応しいか恐れを抱きますが、慣れは恐ろしいもので、次第に抵抗感なく何年も続けます。1期目より2期目の方が肩の力も抜けて、視野も広くなってくるので、人間的に見れば落ち着いた仕事が出来る様です。自分から申し出たり牧師から打診されたり、役員選挙のように否応無しとか、様々ですが本人も選ぶ側も共通して、先ずは主の御心か祈って確かめますが、個人的な事柄以外にも、教会は共同体なので自分が就任する影響など考慮し、とはいえあれこれ考えすぎると、結局は奉仕は主から個人的なお召しなので、踏み出せなくなり、やってみて砕かれ鍛えられ恵みを受けさらなる奉仕へと、志します。周囲から認められず祈れど手応えなく、批判受けて問題が続けば、疲れを覚えて辞めたくなることも。されど会社の如く辞表出して終了でなく、辞める時や断る時こそ就任以上に、自分と共同体の両面から熟慮を要します。

5節で奉仕者の代表としてモーセの名と共に、三つの命令が挙げられます。一つ目に「よく注意」する。自分なりの計画や周囲から悪く言われないための、ボロを出さない人間的な完璧さに非ず、神が喜ばれて栄光を表されるかです。逆に言えば自分や周囲があまり評価できずとも、神が喜ばれれば良いのです。 二つ目に「型どおりに」。御言葉に示された規格から1㍉も狂ったらNGです。堅苦しく聞こえますが、民が最悪の偶像礼拝の罪で打たれて悔い改めた直後、全体に神を恐れる良い霊的状態と、間違いなく奉仕したい熱心が在りました。三つ目に「すべてのものを」造ろうとすることで、幕屋の全体像が見えてくる。そのためには一部の者でなく、多くの者が奉仕し献げる全員野球が必要です。

奉仕について主への聖い恐れがありますか?失敗やミスを恐れるでなく、上記の民のように、みんなでへりくだりつつ主を見上げて取り組むことです。それよりも「はるかにすぐれた奉仕」とは、主イエスが「仲介者」を全うされて、微力な私たちの奉仕が、旧約時代の巨匠たちがどんなに頑張っても届かない、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」(Ⅰコリ3:8)ゆえ解放されて最高の奉仕に導かれることです。私たちの奉仕に仲介者はどう関わりますか。
6月29日
祈ってください
エペソ6:14-20
武安 宏樹 牧師
①堅く立ちなさい(14~16節)
以上全て防具ですが、「堅く立ちなさい」が主動詞で他はみな分詞のため、私たちは武装して闘う気になる前に、自分の足で大地を踏んで立つのが重要。足元が覚束ないと組み合った瞬間に倒され、踏み込みが良ければ前に出ます。武具が勝手に闘ってくれるわけではなく、主体はあくまで私たちということ。一つ目「帯」は武具ではありませんが、闘う以前に自分の霊性を引き締めます。二つ目「胸当て」無くば一突きされたら負け。「正義」自分ではなく神(マタ6:33)。三つ目「履物」危険&疲労から守り遠くまで進むため、福音の基本が最適な靴。 四つ目「盾」信者は中傷や誘惑や失望が来ますが、信頼こそ守りです(詩91:4)。

②かぶとと剣を(17節)
ここから攻撃具。「かぶと」は頭部保護ですが「救い」とあるのがポイントで、額の部分にイエスの十字架の血(≒家紋)が刻印され、悪魔は恐怖で逃げ回り、事実上の攻撃具として、水戸黄門の印籠の如く突き付けながら敵を追います。「神のことば」唯一の純然たる攻撃具。以上の武具で身を守り敵を追い回すも、刺し貫かなければ勝利できません。荒野の如く悪魔は聖書でさえ対抗します。良く斬れる剣を有しても知識が有っても、敵の急所を衝かないと意味が無く、御言葉通りの生活が使える兵士の条件です。チャンバラごっこで終わらずに、御霊の高圧電流が流れる剣で刺し貫かれ、真剣勝負で自分も鍛錬しましょう。

③使節の務めを(18~20節)
18節に「全て」を表す語が5回登場、これでもかと祈りをチャレンジします。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、悪霊に対する」(12節)からです。祈りには御霊の傾注と訓練が必要ゆえに、最初から完全に祈れる人は居らず、本日の箇所から言えるのは、大能の力に強められて神の全ての武具を取れば、結果的に祈りを全う出来る。着け忘れやズレは無いか慎重な検討も祈りです。18~20節は一続きですが主動詞は「祈りなさい」でなく「使節の務めを果たす」ここに祈りの完全さが目的でなく最上の手段とわかり、光栄な務めの責任感、使徒も信徒も区別なく同じ肢体ゆえ、「祈り祈られる」霊的戦いは団体戦です。
6月22日
私たちの格闘
エペソ6:10-13
武安 宏樹 牧師
世界に目を向けると、中東もウクライナも戦争は泥沼化で終わりが見えず、己の支持率や世論を高めるため、利権のために侵略し血を流し強奪し虐げる、為政者のなすことは古今東西不変です。ところでキリスト者に戦争はあるか。主の愛の大きさを思えば争いは愚の骨頂、平和をつくることが大事と(マタ5:9)良くも悪くも私たちは平和を重んじますが、戦争は不要かと言えば違います。主イエスは荒野で父の御心と御言葉を厳守しながら、悪魔の誘惑を撃退して、最後は十字架から下りてみよとの惑わしに抗し、ご自分のいのちを投げ出し、遂に悪魔は救いのバイパス完成への妨害を断念しました。キリストの真理は、愛をもって平和を築く反面で、罪と戦い、世と戦い、悪魔と戦うことです。キリストの救いの完成で、悪魔は確信を揺さぶり善行の阻止と教会の分裂に、日夜努めます。本書は信者の選び(1:4)に基づき、一部の指導者だけでなく、本章で教会員全体に霊的戦いへ参加を命じています。キリストの肢体として、愛を結び目に一致して戦います(Ⅰコリ12-13:)。一同で主を見上げて祈れば、個人的にも教会的にも「大能の力」を受け、融通し合って蓄積されていきます。

先週祈祷会で「自らを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべての知性と仲たがいする」(箴18:1)自分を正当化し交わりから一線引いてしまうのでは、駄目であると。「知性」は知識や体験の他に人間関係や愛の交わりを含みます。議論が容易にまとまらないと疲れますが、砕かれて主を求める契機でもあり、当教会の結束の強さを鑑みれば、少しずつ何らかの光が見えてくるでしょう。12節には「血肉ではなく、支配・力・この暗闇の世界の支配者たち、悪霊」などと対象が記されています。私たちは前向き&後向き問わず、様々な人や組織と、自分の意見が正しいと考えてバトルします。時に行き過ぎて傷つけもします。けれどもパウロは本当に戦うべき相手は、目に見える特定の人や組織でなく、限定された区域と期間でキリスト者と教会を惑わし、世の人々を敵対させる、悪魔に対してだと言います。お伽話の様ですが聖書にある以上は存在します。心の中の高ぶり&恐れの罪は一見して相反するようで、密に結びついており、厄介な失望&落胆の霊が惑わします。神の主権性とキリストの所有権を叫び、悪魔の忌み嫌う「常喜祈感謝」(Ⅰテサ5:)「御霊の実」(ガラ5:)を咲かせましょう。
6月15日
賛美命令
詩編150:1-6
武安 宏樹 牧師
詩篇の中心主題は神を賛美すること、神の栄光をたたえることにあります。1篇は「幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず~」善と悪を白黒つけつつ、信者の歩むべき道を正しく教えることから入ります。主イエスは十戒と聖書全体を①主なる神を愛する②隣人を愛する、二原則に、まとめました。聖書は簡潔な教えでその通り生きるなら人生はシンプルです。以上が私たちの人生の指針なら、最終の150篇で10度「神をほめたたえよ」は、人生の究極的な目的です。最初と最後の「ハレルヤ」=「主をほめたたえよ」で、十戒や十分の完全数10に三位一体の完全数3を足して、13回「ほめたたえよ」。「人に関わる議論は姿を消し、自分の幸福への希望も視野から消え去って、ひたすら神を仰いで、ほめたたえることで堪能する。これが聖書の詩篇の行きつく境地と感銘させられる。技巧尽きて、感興果てて、作為消えて、その高雅さは輝く。」(小畑進)「感謝と賛美とは互いによく似ています。私が感謝する時は、神が私にしてくださったことに対し神に栄光を帰しています。ところが賛美している時は、神ご自身に対して、神に栄光を帰しているのです。」(O・ハレスビー)

詩篇最終節「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」は人生の目的であり世界と宇宙の目的です。私たちは3~5節の音楽的な部分だけで、1節「だれを」2節「なぜ」6節「だれが」賛美の広がりが欠落していませんか。そこで感謝を足掛かりに賛美へ昇り、自分の周辺を手あたり次第感謝しつつ、「すべてのことにおいて感謝」(Ⅰテサ5:18)の困難に直面しつつ、ただ天に在る「神の聖所」を見上げて、私たち礼拝する地上の教会が天の直轄領だと覚えて、ここから全世界に御力が及ぼされることを、神の偉大さを畏れて手を伸ばす。感謝できるまで神にすがり、感謝できないと神に反抗し、聖霊に抵抗しつつ、自分のやり方や神学にこだわる罪に向き合い、砕かれて視野が拡がるのです。すると自分の見方以外に周囲に配慮し、天から神の視点の如く俯瞰的に見て、自分が何者で何をしようとしているのか、何と戦っているのか見えてきます。感謝尽きどうすればよいか判らない時に、主をほめたたえる最高の訓練です。私たちに下った聖霊の力は賛美へ。天における神の臨在に一気に昇ります。賛美は鎖から解き放ち罪と世と悪魔に勝利する、全人類への力強い招きです。