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礼拝メッセージ

8月2日

父と母を敬え
出エジプト20:12
武安 宏樹 牧師
十戒後半の人に対する社会規定に入ります。真の神を正しく畏れる者のみ、立てられた権威を認めて服従できます。系図を辿れば最初の人アダムを経て、神に行き着くことから、前半の神に対する宗教規定に含める見方もあります。「敬え」原語は'重んじる''栄光'の意。神はなぜそのように命じられたのか?「私が私の父や母,また全て私の上に立てられた人々に,あらゆる敬意と愛と誠実を示し,全ての良い教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し,彼らの欠けさえ忍耐すべきである,ということです。なぜなら,神は彼らの手を通して,私たちを治めようとされるからです。」(ハイデルベルク信仰問答104) 家族の年長者、学校や教会の教職者、職場の上司や先輩もここに含まれます。神がその立場に置かれて、家庭や社会や教会で権威を代行委任しているから、尊敬しなさいというのです。エペソ5~6章で夫婦&親子&主従の3関係が、下にある者の義務だけでなく、上に立つ者の義務についても対等に命じつつ、キリストの姿に倣うよう、双方の愛の交わりから神のシステムを尊ぶことを勧めます。聖書における人間関係は秩序を尊びつつ互いに愛し合うものです。

「愛は寛容,親切,妬まず,自慢せず,高慢にならず,礼儀に反することをせず,自分の利益を求めず,苛立たず,悪を心に留めず,不正を喜ばず・・・」(Ⅰコリ13:) 親や上の人に敬意を表し、たとえ戒めが必要な時も謙遜な気持ちで諫めれば、耳も心も開かれます。とはいえ立てられた秩序でも難なく出来る人は少なく、親に暴力、先生に体罰、上司にパワハラ、友人にいじめを受けてきた子が、どうやって表すことができるでしょう。先述の信仰問答で①敬意と愛と誠実②ふさわしい従順③欠けを忍耐する、以上三点のうち①②は困難だとしても、③に努めてはいかがでしょうか。キリスト者はキリストの似姿に変えられて、私たちのうちには聖霊によって、十字架の血潮と主のDNAが流れています。第5戒は後半部の対人関係に属しつつ、前半部の対神関係の架け橋でもあり、傷ついた記憶に苛まれる私たちの愛の欠けを、キリストに素直に従うことで、第1→第2→第3→第4と守ろうとするならば、恵みが隣人に届くのです。主に妥協無く仕える人は親や上の人への姿勢も変わります。時間かかっても、主は私たちを見ておられます。破れ口にキリストに立っていただきましょう。
7月26日
まことの安息
出エジプト20:8-11
武安 宏樹 牧師
① 神を覚えるため
安息の起源は創造の記事に遡り。6日目に最高の作品である人間が造られ、「われわれのかたちとして,われわれの似姿に」明らかに他の被造物と異なり、神の特別な思い入れと愛情といのちの息を込められ、特別な使命を与えられ、「こうして,天と地とその万象が完成」創造6日間ベリーグッドでした(創1:)。「神は第7日に~すべてのわざをやめられた」ここに休みの起源があります。ひととおり6日で仕上がっても、休みを経た7日目こそ完成と強調します。この休息に何の意味があるのか。人が神の休みに倣って手を休めるためです。他の被造物で安息日をとるものは無く人間だけ。だから休まないといけない。'月月火水木金金'で働き詰めだと、他の動植物と同じで霊的生命を失います。昨年流行語大賞「働いて,働いて,働いて,働いて,働いて・・・」首相の弁ですが、長時間労働の奨励に非ずとのことですが、「日本の経営者」が背中を見せれば、国民は当然ついて来るべしと暗に語っている、国家の奴隷と化す感がします。もしも休みを許さない時代が来るならば、結局は人間と社会が病んできます。

② 人を休ませるため
神に倣って休む。手を休め、心を休め、霊を休めると明日の力が湧きます。頑張るのを止めないと心身バラバラに。深いところにおられる神と向き合い、愛と力をいただいて、いやしと慰めを受け取る日。'聖=分離'特別な日です。イスラエルの民が前日にマナを2倍集めよと。安息日に神を見上げるためで、一部が従わずに安息日に働くもゼロでした(16:)。何故休みを拒否したのか。不従順に加え、エジプトの強制労働から奴隷根性が染みついたのではないか。貧乏性的に働かないと落ち着かず、主体的な御言葉と信仰の成長を阻害して、うまくいかないと人のせいにする、彼らの霊性の深みには偶像がありました。救われてもなお主に憩うことをせず、悪魔的な奴隷心に冒されていませんか。「生涯の全ての日において,わたしが自分の邪悪な行いを休み,わたしの内で御霊を通して主に働いていただき,こうして永遠の安息をこの生涯において始めるようになる,ということです」(ハイデルベルク問103)安息に終わりは無く、創造7日目は安息のスタート。この恵みは全ての霊性の出発点また訓練です。
7月19日
乱用しない信仰
出エジプト20:7
武安 宏樹 牧師
「第三戒で何を求めていますか。」「私たちが呪いや偽りの誓いによってのみならず、不必要な誓約によっても、神の御名を冒涜または乱用することなく、黙認や傍観によっても、そのような恐るべき罪に関与しない、ということで、要するに、私たちが畏れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いない、ということ。それは、この方が私たちによって正しく告白され、呼びかけられ、私たちの全ての言葉と行いとによって讃えられるためです。」「しかし、神の御名によって敬虔に誓うことはよいのですか?」「その通りです。権威者が国民にそれを求める場合、あるいは、神の栄光と隣人の救いのために、誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合です。」(ハイデルベルク信仰問答99.101)」

聖書に手を置き就任宣誓する米国大統領が、利権争い以外何物でもない、イラン戦争の正当化のため、支持基盤である福音派の指導者たちともども、善悪二元論に単純化した上で、神の加護を言葉やAI画で宣告しています。金と権力と大言壮語が幅を利かす歪んだ世界で、主の御名を口にするとは、どういうことなのか。主イエスはさらに厳しく「みだりに口に」することは、悪霊の業と断じます(マタ5:37)。私たちの口も聖められていないと痛感しつつ、主は私たちの祈りをどう見ておられるか。祈りの答を受け入れる心の準備と、自分を棄てる覚悟が出来ているのか。「求める前から、必要なものを知って」おられる主イエスに対して、心の底から単純な信頼があるのかが問われます。

主の祈りは御名を「みだりに口に」したがる、私たちへのチェックリストで、父の名を絶対に「みだりに口に」しない御子が、「こう祈りなさい」教えた祈り、私たちがこんなにも無駄に空しく唱えていたかと、悔い改めを促す祈りです。されどそれだけで満足せず、「権威者が国民にそれを求める場合」告白すべき、こういう時には命をかけて世に向けて、主の御名を唱えなければなりません。不利益や危険も伴いますが「天においてあなたがたの報いは大きい」(マタ5:12)よくやった、忠実な僕だ!と主に歓待されることを、目的といたしましょう。そのような必要以外にも、「神の栄光と隣人の救いのため、促進」しましょう。「私たちは御名を真理や善きことのために用いるよう命じられている」(ルター)
7月12日
ねたみの神
出エジプト20:4-6
武安 宏樹 牧師
第2戒「あなたは自分のために偶像を造って~拝んで~仕えてはならない」神は見えない霊なる方なので、何らかの形で現すのは無限の神を人間と同じ有限に引き下ろす罪です。以上の動詞3つ態が異なり「造って」は基本形で、私たちが主体ですが、「拝んで」は再帰形で私と偶像が協同して拝ませる印象、「仕えて」は使役受動形で直訳「仕えさせられて」、偶像に支配される印象です。いわゆる宗教行為以外にも、私たちは幼時の親の言葉や青年期の憧れの人や、人生の夢や金&偏差値&業績などの数字や、劣等感&競争心&許せない心や、医者の診断など心の中は偶像だらけで、キリスト以外に救い様ありませんが、「あなたの神,主であるわたしは,ねたみの神」この「ねたみ」は「熱心」「激しさ」とも訳されます。人間的なねたみは契約関係にある夫婦なら浮気相手だとか、罪に対して憎しみに基づく不満があるので、双方とも後ろめたいものであり、「愛は~人をねたみません。」(Ⅰコリ13:4)「肉のわざは~ねたみ」(ガラ5:19-21)パウロも断罪しますが、神も諸感情の中に「その炎は火の炎,すさまじい炎」(雅8:6)愛の激しさと義しさから罪をあぶり出す聖なるねたみをお持ちです。

私たちは神と一対一の関係で、偶像の存在を棚に上げ聖く歩もうとします。されど神が偶像に怒りを表す激しさは、ねたみと恵みに満ちた愛の証印です。取り去られたりうまくいかなくなる時は、そろそろわたしの御言葉で立てと、御霊に促されています。私たちは梯子を上るように実を得たいと願いますが、主イエスは最初こそ喝采を受けるも、徐々に人々が離れ弟子たちまで裏切り、最後ひとりで父と向き合い死なれました。偶像皆無で従順が完全だからです。死なば父が復活させてくださると信じたからです。偶像を持っていませんか。どこから墜ちたか思い起こし、痛みを伴って断ち切られる覚悟をしましょう。偶像に人を生かす何の力も無く、お札お守りは自分の願いを込めるものです。自分の好むように生きる人生は空しい。しかしキリスト者の人生は違います。「人のおもな目的は,神の栄光を顕わし,永遠に神を喜ぶこと」(WM小教理問1)神が私たちを造られ、神礼拝を喜ぶ民として、神と人に仕え栄光を顕すため、換言すれば偶像など頼らなくてよいように、能動的で熱い思いをお持ちです。主のねたむ愛が押印され、偶像の結集たる大バビロンに立ち向かいましょう。