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礼拝メッセージ
5月3日
神に喜ばれる礼拝を
へブル12:25-29
武安 宏樹 牧師
終末の恐るべき光景を「揺り動かされるもの」「揺り動かされないもの」対比しつつ「私たちは感謝しよう、神に喜ばれる礼拝をささげよう」勧めています。週ごとの礼拝と日ごとの主との交わりを、どのような思いで捧げていますか。ハガイは神殿再建の彼方に救い主を、本書は主の再臨から審き主を示します。武安 宏樹 牧師
①揺り動かされるもの
本日は80年前に制定された憲法記念日。戦前の国のため人がある国家観を、戦後憲法は人のために国がある民主的かつ進歩的な法体系で、平和を構築し、世界の信頼を得てきました。思想と信条の自由の保障は伝道と教会形成にも、教勢の著しい発展には遠くとも、落ち着いた歩みをなすことができましたが、急速に人を統制し利益のために戦争も辞さない、国家形成に向かっています。以上の危機意識を通して、私たちの礼拝は真剣さを帯びることになります。イエスは主なり、侵略戦争は犯罪、近隣諸国と友好と、従来当り前のことが、SNS界隈で偏見や攻撃に晒されかねず、日本は1.2億人のムラ社会ゆえ、世の同調圧力と戦うのは並大抵ではなく、時代にどう向き合うかで30年後のリバイバルが決まります。主が語られた'小黙示録'に教えられます(マコ13:)。「前もって心配するのはやめなさい。話すのはあなたがたではなく,聖霊です」
②揺り動かされないもの
主が再臨され新天新地と成る暁に、リフォームされた教会の建物は除かれ、されど礼拝者の私たちは「揺り動かされない御国を受ける」民として天上で、永遠に主と共に存続(13:8)。「しかし,主のことばは永遠に立つ」(Ⅰペテ1:25)変わらぬもの、朽ちぬものを所有し信じる私たちは、何と幸いな民でしょう。政治&経済&平和の変移を不安に感じ、右往左往し虚無に陥るのが世の人で、怒りと嘲りと諦めが満ちて、その反動で人はますます頑なに偶像に頼ります。しかし私たちは逆で、変わらないものを有すから日々変わることができます。天の御国も火の審判も死後まで待たずして、聖霊の働きで体験するものです。 皆さんは日々変えられていますか。外なる人は衰えど、内なる人は日々更新。「天地は過ぎゆかん。されど我が言(ことば)は過ぎ逝(ゆ)くことなし。」(マコ13:31文語訳)
4月26日
我が主、我が神よ
ヨハネ20:19-31
鄭 南哲 師
鄭 南哲 師
①最後まで復活を信じようとしなかったトマス(20節)
本書の結部がトマスの話であることは興味深い。弟子として最も身近に、しるしや行いや教えを見てきたのに、最後まで疑い続け信じなかった彼は、目で見て手で触って確認できなければ信じようとしない、現実主義者でした。他の弟子たちは主を見て喜ぶも、そこに居なかった彼はなかなか信じません。
②人々がイエスさまの復活を信じられない理由(25節)
目に見える現実が全てと思う人には、霊的な事柄や死後のに対する思いや信仰が無いため復活は信じ難く、固いトマスは自分の論理や考え方以外には、受け入れようとしない自己中心思考(ナルシシズム)に、閉じこもっています。
③夜に再びおいでくださる復活のイエス・キリスト(26節)
以後1週間して祭が終わり、ユダヤ人たちは戻るも弟子たちは再び集結し、トマスも誘われて居合わせたところ、復活の主は再び現れてくださいました。ついに彼の頑なな心の壁が破られ、心から「私の主,私の神」信仰告白します。
④見ずに信ずることが幸いである理由(29節)
目に見えるから信じますと言いますが、神は見えないから信じ難いのか?「見ないで信じる人たちは幸い」と。最後の31節には「信じるため・・・信じて,いのちを得るため」本書の目的は主イエスが神の御子であることを、聖書の出来事や御言葉を信じるだけで、その人に永遠のいのちを得られる約束です。
⑤イエス・キリストの復活は歴史的事実であり確かな出来事
トマスはインド南部チェンナイまで行き、福音を宣べ伝えながら遂に殉教。彼ら以来6600万人以上のキリスト者たちが殉教。復活が事実でなく虚偽なら、彼らはこの世で最も愚かで哀れですが、信じるか否か以前に歴史的事実です。どんなに弱く絶望的な人でも、生けるキリストと出会えない人はありません。今日改めて復活と愛をもって来られたキリストを、確実に信じ感謝しながら、神の愛と復活の喜びの良い知らせを宣べ伝え、証人として用いられましょう。
4月19日
天上の教会
へブル12:18-24
武安 宏樹 牧師
本章ここまで「タテ」と「ヨコ」の関係を統合しキリスト者のゴール地点へと昇華します。「近づいて」完了時制から過去の出来事の結果として今がある意。交読文の黙示録21章は終末における天国側の光景で、聖なる都が天から降り、本書は地上から近づきつつ、天上の教会が地上の教会に近づいて祝宴を催し、信者が走り続ける地上側の光景です。昨今の地上の「見える教会」の視点から、神の所有とはいえ罪人の集まりゆえに、これでも信者かと首を傾げたくなる、某大国トップの言動など、同じ聖書を神の言と信ずる「福音派」でありながら、教理的逸脱や人間的解釈による歪みなど、紙一重で判別が困難な時代です。地上の教会は「戦闘の教会」として、悪しき霊と戦いを余儀なくされています。武安 宏樹 牧師
前半18~21節は出エジプト記における、モーセへの聖なる神の顕現です。「第一は神の輝くばかりの威厳,第二は絶対に人を寄せつけない神の排他性,第三は神への徹底的な恐怖。そこには超然として気高く,人間から全く離れた神と,神の前に恐れおののく人間の姿が描かれている」(バークレー)このように主に打たれる不安と丸裸にされる罪の自覚に、震えたことはあるでしょうか。パウロはダマスコ途上で主イエスの光に圧倒され、地に倒されました(使9:)。この聖い恐れが彼の証しの原点で、恐れ無くば簡単に逸脱し異端に流れます。「主の名をみだりに口にする者」は第三戒違反、世界の平和を破壊する者です。私たちも同じ罪を犯していませんか。モーセとパウロへ顕現を覚えましょう。
後半22~24節は天上の教会の光景。私たちは十字架の贖いを信じた時から、聖霊は内住し、そこから天への歩みと訓練が地上の教会を通して始まります。誤解してはいけないのが、天上を見るばかりに地上の教会を軽視しないこと。神は独り子をお与えになったほど世を愛され、24節の御業の舞台は地上です。されど主は悪魔の誘惑や十字架の苦難を前にしても、天から目を離すことも、歩みを止めることもせず、天と地の隔絶された破れ口に橋を架けられました。ここに聖い恐れと愛とが分かち難く通行します。地上の教会は天の植民地で、私たちも臨在&愛&光&喜び&いのちしか無い、本籍地へと近づけられます。地上で善に励み、聖さと平和を求めて、主の如く祭司の務めを果しましょう。
4月12日
聖さと平和を追い求め
へブル12:14-17
武安 宏樹 牧師
本章ここまでは神と自分のタテの関係についてでしたが、本日の箇所では、「すべての人との平和を追い求め」ですから、タテ→ヨコの関係に適用します。十戒(出20:)や八つの幸い(マタ5:)では、それぞれタテとヨコに分かれますが、互いに密接な関係です。原文は文頭に「平和」、以降「聖さ」の説明が続きます。したがって真の意味で「平和をつくる」には、「聖さ」が前提ということです。武安 宏樹 牧師
「なぜ平和をつくり出す人たちは幸いなのか。他の誰とも絶対に似ておらず,目立つ人だから,さらに彼らが違っているのは,神の子だからである。なぜ,世界に戦争があるのか,世界のどこが問題なのか,この幸福の使信によれば,罪こそその答えである。あらゆる問題は,人間の欲情,強欲,利己性,自己中心,これがあらゆる問題と不一致の原因である。平和のための国際会議の失敗は,政治上,経済上,社会上の事柄ではなく,本質的には神学的で教理的である。聖書によれば問題は心の中にあり,新しくされた心以外の何ものも,以上を扱うことは決してできず,そうであるかぎり決して平和は無い。」(ロイドジョンズ)
腹立たしいことに、戦争を起こす国ほど「平和」を声高に唱え、自己中心で利権争いに手段を選ばぬドス黒い「平和」が世に満ちています。戦争と平和は本来は対義語のはずがもはや類義語と化しています。聖さを求めることです。一つ目に「聖」は分離の意で、聖なる神と罪ある人間は根本的に隔絶されます。人は神に造られながら罪を犯したことで、常に反抗的で自己中心な態度です。ここでエサウが登場。空腹を満たすため長子を売る行為がそんなに悪いのか、疑問に感じる向きも多いでしょうが、彼は神の恵みを食物や金と等価として、結果的にユダ同様神を売りました。私たちも恵みを易々と人の業に交換する、罪を犯していませんか。すると御霊が運ばれる聖さが切断されてしまいます。二つ目に悔い改めて神に近づく者は、家族・職場・社会に聖い平和を造ります。「神の子ども」(マタ5:9)=私たち。平和活動は信者でなくても誰でも出来ます。されど人間の外からの平和だけで、人の内なる罪との戦いに対応できません。キリストは金やご馳走ではなく、身をもって私たちを贖ってくださいました。聖い愛を受けた者のみ、利害や思惑によらぬ非常識な平和をもたらすのです。