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礼拝メッセージ

6月7日

神に賛美、人に善行
へブル13:14-16
武安 宏樹 牧師
14節は原語「なぜなら」で始まり、「宿営の外に出て」(13節)を受けています。「この地上には永遠の都はない。」(口語)私たちが大事にしているものは何か。目に見える人々や活動ではないか。どれも神から託された大事なものですが、「主は与え,主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)と言えますか。地上で取られるほど、天に宝を積む訓練となります(マタ6:19-21)。「私たちは怠惰に傾きがちなので,揺さぶられてしばしばあちこち連れて行かれるのは有益なことである。それは私たちの目を天に向けることを学ぶためであり,さもないと私たちの目はすぐ低きについてしまう」(カルヴァン)目に見えるものの、新しい会堂でささげる礼拝の彼方に、天の祝福をどれだけ見れるでしょうか。

15節で「いけにえ」再登場。主イエスが永遠のいけにえであると覚えつつも、私たちが地上で何をすべきか。キリストだけで十分と言われても物足りない、ヘブル人信者が律法と儀式を失う空しさを、どう埋めるかを著者は答えます。それは食物云々ではなく、同じ唇をもって聖霊の実である賛美をささげよと。方法は「イエスを通して」、目的は「御名をたたえ」、頻度は「絶えず」なのです。私たちはどうでしょう。感謝は自分に神がしてくださったことが起点ですが、賛美は神御自身に栄光を帰します(ハレスビー)。信仰生活がうまくいかなくても、精神的に落ち込んでも、試練で苦しむとも、私たちの基本は賛美することで、「外に出て」エリコの城壁崩壊の如く(ヨシ6:)、戦いの賛美をもささげましょう。

16節で、賛美が天に向かうのに対し、善行&施しは地上に向かうものです。教会は主を礼拝する共同体であり、パンを分け合い、善行で好評を博します。主イエスは「最も小さい者たちの一人にしたこと」(マタ25:40)をも見ています。善い行いは絶えざるいけにえです。まずは教会の中から慈善を為しましょう。私たちは評価されないとヘソを曲げますが、どの小さな業も主は見ています。「あなたの施しが隠れたところにあるようにするため」(マタ8:3-4)少なくとも、いけにえとして受け入れられています。いつでもどこでも善を行いましょう。世の人は平和と善行を叫んでも徒労に終わると、疲れと諦めを感じています。キリスト者は神に賛美&人に善行から、天の御国の栄光が着実に証されます。
6月7日
恵みによって心を強くする
へブル13:9-13
武安 宏樹 牧師
ヘブル人教会の一部に、特定の食物を食べたり食べなかったりすることで、律法に拘束されて霊的に力を得られると考えていた者が、いたと思われます。パウロは福音はそういうものではないと警告しています(Ⅰコリ8:8/ロマ14:17)。「信仰」「恵み」に実感が湧かず、救いの確信が乏しいので昔から親しむ教えに、戻ろうとしていたのでしょう。信仰とは今も我が内に生きて働いておられる、主イエスと個人的関係に生きること、恵みとは救われよう成長しようとする、努力に死んで天から伸びる手で生かされることです。恵みと信仰以外から、活路を見出そうとする者は跡を絶たず、禁欲の狭い世界の中でもがいてます。このことは律法や霊的習慣を軽視しているのではなく、キリストの救いとは、救われた者として、聖霊に導かれつつ悪習慣を絶ち敬虔な生活を喜ぶのです。人の罪深さは自分の祈りや奉仕の量で、神の祝福を取り引きしたがることで、うまくいけば心が高揚し、いかなければ落ち込み、他の方策に乗り換えます。恵みと信仰に歩むには努力以前に、7割の力で聖霊の働きに部屋を明け渡す、意識改革と長い訓練を要します。黙想し思考を働かせ主を賛美する生活です。

11~13節では「外」が3回、「出て」も「外」「行く」合成なので実質4回登場し、あなたがたの罪は律法の外、宿営の外、町の城壁の外で焼かれたということ、主は御子としてではなく、罪人の一人として追放&遺棄されたと語ります。「そういうわけで,弟子である私たちも,今の安住の地に満足をしていないで,そこから出て,主イエス・キリストと共に苦しみを負わなければならないわけです。それが出来るように主は私たちに力を与えてくださいます」(尾山令仁)律法主義に縛られて安住主義に慣れたままでは、信仰と恵みが見えません。聖霊は私たちを見たこと無い、可能なら見たく無い外の世界へ連れ出します。争いを好まず穏便に事を収める平和主義者で良い点もあれば、新しい旅路を妨げることもあります。出て行くとは自分の居心地良い環境に背を向けて、町の外に武装し信仰の戦いをすることです(エペ6:12)。自分が出て行く前に、「イエスの辱めを負う」覚悟があるのか。行き先々で恵みが先立って勝利する確信があるのか問われます。「みもとに行こうではありませんか」直訳すると、「彼のところに出て行こう」。主の在所に出て行って恵みで強くされましょう。
5月31日
だれが天に上るか
箴言30:1-4
武安 宏樹 牧師
①愚かさの自覚(2節)
「粗野」は獣にも通じ「愚か者」「間抜け」とも訳されます。作者の自己認識で、そんなに彼は「粗野」「分別のない」人かといえば、傍から見れば違うでしょう。自分の愚かさを認める人は、神がどんな御方か自分との落差を知っています。たとえ話「パリサイ人と取税人」(ルカ18:)のように、完全無欠を自称する者は、主イエスの介入の余地がありません。対する取税人は自分に救いの価値無し、天からの介入しか活路無し、だから恵みが降ってくるのを待つほかなしと、知っていました「医者を必要とするのは,健康な人ではなく病人」(ルカ5:31)。罪深く愚かで分別が無い、以上の自覚こそが主に近づけられる霊性なのです。

②神の知恵と知識を求める(3節)
「知恵も知識も持っていない」と言うものの、作者は真っ直ぐに主を求めて、「神のことばは,すべて精錬されている」(5節)きよめられた者の告白です。契約の民として精一杯学んだとしても、全能の神を知り尽くしたとは言えず、教会や宣教区などで重要な奉仕に励んだとしても、自分の浅識にうなだれる。神を求める者に人の評価も伴いますが、高慢になりやすい若者には罠となり、倒され人が離れます。神の創造の素晴しさを称え、御子の十字架に依り頼み、聖霊の臨在に励まされ、真に神を知ることでどれほど知らなかったかを知り、にもかかわらず神の愛と聖さは十分と痛感する。以上繰り返して成長します。

③だれが天に上るか(4節)
ヨブを想起します。彼は誰よりも神を知り、理不尽な苦難と孤独の中でも、友人たちの言葉に倒されず、ひたすら神に問い続け返答を求め叫びました。「ああ,できるなら,どこで神に会えるかを知って,その御座にまで行きたい」(ヨブ23:)彼は非の打ち所の無い人物であり、パリサイ人のような一方通行の熱心さとは異なり、さばきを含めて神の御手を受け入れる俊敏な霊性でした。けれどもあえて神が沈黙されたことは、「天に上った者」(ヨハ3:13)キリストのみ栄光を受けるためでした。彼が砕かれる前に易々と神が天の門を開けば、自分の業ゆえと錯覚します。天から手が伸びて初めて人は応答できるのです。
5月24日
変わることがありません
へブル13:7-8
武安 宏樹 牧師
キリスト教三大祭の一つで旧約聖書の五旬節ごじゅんせつ、ちょうどその時主の昇天後、一つ所に集まっていた弟子たち他の上に、生前の約束通りに聖霊が降られて、彼らは未だ教えられたことのない外国語を語り、世界中に教会を生みました。以降2000年間のキリスト教史は時に権力と対峙し、あるいは保護されながら、紆余曲折を経つつ、欧米からアジア&アフリカ&南米や、近年イスラム圏も、宣教の御霊は世界中で魂の救いと、教会の建て上げのため今でも働かれます。教会には「指導者」が立てられ、本書は11章の旧約時代の偉人たちに始まり、12章「イエスから目を離さないで」を経て13章は存命中の先達に倣うべしと。著者は真実な信仰に信頼できない彼らに、指導者の愛と聖さを思い起こさせ、励まそうとしているようです。教会も歴代の牧師に指導を受けて成長しつつ、その反面で人間的側面につまずく人や、逆に全て神の摂理の中にあると信じ、受け止め悔い改めつつさらに成長する人も。私たちの信仰生活も人を通して、受けることの方が、個人的な神との関係や聖書よりも実際は多いと思います。「自分たちの集まりをやめたりせず,むしろ励まし合いましょう。」(10:23-25)

一方でどんなに優れた「指導者」にも限界があります。尊敬していた人でも、大きな罪を犯して離れたり、傷つけられたり、転任したり、そして死にます。人間関係は主の恵みですが、裏切られ取り去られる時に信仰の真価が問われ、そこで著者は「イエス・キリストは,昨日も今日も,とこしえに変わることがありません」と。私たちへの愛が信仰の不調や罪などマイナス要因で変わらず、聖さが昔は良くても今は自堕落に変わらず、方針が左にも右にも変わらず、何よりも死ぬことが無く、生前の著書や弟子の証言のみの過去の人ではなく、天地創造のはるか前から居られて、人類の全ての歴史も痛みも共に味わって、今も最高の指導者として内なる御霊が、世の終わりまで責任持って導きます。人の心は変わります。世の動きも変わります。政治も経済も道徳も乱れます。そうしたら世の人は何に頼るのか、右往左往し迷いながら滅びに向かいます。けれども私たちはキリストの不変を、王の王&主の主として諸権力を束ねて、世界も歴史もたった一声で終わらせる。この最高権力者が私たちの見方です。指導者の教えを大切にしつつ、目線はキリストに死も恐れず見上げましょう。