メッセージ
MESSAGE
イエスに出会う道
ルカ24:13-35
入江 告 師
今日の箇所は「ちょうどこの日、弟子たちのうちの2人がエルサレムからエマオという村に向かっていった」から始まっています。これはがっかりしていた弟子たちの姿で始まっています。ちょうどこの日というのはイエス様の復活の出来事を示しています。イエス様の弟子は12弟子だけではなく、100人ほどいると言われ、ここに出てくる弟子たちはその弟子のうちの2人でしょう。この弟子たちは19節、21節で「力のある預言者でした」「望みをかけていました」と過去形で書かれていることから、昔はそのようなお方だと思っていたのですが、実際はそうではなかったという気持ちが含まれていたのではないでしょうか。そしてきわめつけは復活の話題で盛り上がっているエルサレム(高台の町)から背を向けるかのようにしてエマオに行くわけです。下り坂を歩くということは彼らの心情を表しているように見えます。復活の話題で盛り上がっている町、復活の喜びに満ちた町、そしてそこにいる弟子たちに背を向けていたわけです。誰でもイエス様に従っていたにもかかわらず、がっかりすることもあります。
そのような中、エマオに向かう弟子たちにイエス様はエルサレムの方向から近づいてきました(15節)。その目的はその弟子たちの話をじっと聞くためでした。イエス様は私たちの本音の声を聞くのを待っておられます。昔の神学者の中でクレネンスという人が祈りについて「祈りとは神様との友情を育てること」と言っていました。イエス様は私たちの本音の声を待っておられます。イエス様が歩きながら「どんなことですか」と言われたのは本音に蓋をしてしまう者に対して本音を話すきっかけを与えようしています。この弟子たちは模範的な弟子たちではなかったでしょう。しかし、イエス様に対して「一緒にお泊りください」と言ったことは良かった事だと思います。この言葉をイエス様は待っておられたのでしょう。
「聖書を解き明かす時、心はうちに燃えていた」(32節)と書かれています。イエス様は聖書を用いて語っています。そして今も生きて語っています。イエス様の姿は見えなくなったけれど、いなくなった訳ではありません。今も聖書のことばが世界中に広がり、私たちに希望を与えて下さいます。本来は私たちから神様の元に行くべきであるけれど、イエス様が十字架にかかって下さったことによって、私たちの所に来てくださいました。この弟子たちは光り輝く御顔をもってエルサレムの他の弟子たちのところに戻っていきました。教会の原点はここにあります。