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礼拝メッセージ

4月5日

何とかして
ピリピ3:10-11
武安 宏樹 牧師
私たちの罪のため苦しみを受けて死なれた、主の力強い復活を覚える日で、ここにキリスト者として信仰の土台は聖書、絶対的価値は復活にあるのです。2000年前の歴史的事実だけでなく、現在進行形で私たちは死→復活を体験し、世の人が恐れる死を克服したことを証します(Ⅰコリ15:56-57/Ⅱコリ4:10-11)。10節では第一に復活、第二に苦難と死、第三に復活の順にサンドイッチ状に、復活が苦難と死を挟み込んでいます。二度目の復活は接頭辞「~から」がつき、「朽ちるものを永遠に残す,全き復活」(樋口信平師)死の力の全き解放です。世の人々は生きていくために、働いて&学んで&心身鍛えて&休むことで、さらに一人では生きていけず、家族や社会の人間関係で愛と信頼を培います。逆に愛する人の死や背信、会社の倒産や自分の失敗など支える基盤の崩壊は、動揺をもたらして、さらに落ち込むと心身が病み自傷や死を願うようになり、消耗した状態で門をたたく方も少なからずおられ、福音をお分かちする中で、苦しむ私の代わりにキリストが死んでくださり、この方を信じることにより、これまでの人生を十字架につけて、新しい復活人生を踏み出していきます。

自分で死ねば人生が変わるのでなく、キリストと死ねば人生が変わります。まず「キリストとその復活の力を知る」。復活だけでなく全生涯を知ることで、愛と正義に生きる公生涯も含まれます。「知る」は男女の交わりの意(創4:1)。キリスト者は最初に「知る」だけでなく、知り続けることで罪を悔い改めて、肉の力が砕かれます。これが第二の「苦難にもあずかって,死と同じ状態に」。主の十字架が何のためか分かるようになり、自分にも隣人のためにも死んで、神の価値観に頼るようになります。死んだ数だけキリストへの信仰は成長し、罪への抵抗力さえ死んでいると絶望した人は、罪と死の力から解放されます。パウロは死んだようで死にきれない葛藤を、ローマ書7章で赤裸々に語って、続く8章は暗闇から光へドンデン返し。これが「復活→死→復活」の御霊です。この3つは人の目には関連性を見出せませんが、試練を通して自分に死ぬ時、思いもよらぬところから希望が湧きます。死んだふりでなく死んだ体験から、主の復活を再認識&継続体験。「何とかして~」は途方もない努力ではなく、御座まで引き挙げる恵みの力に、ありのまま手を開いて委ねていく訓練です。
3月29日
まっすぐに生きる
へブル12:12-13
武安 宏樹 牧師
契約の民として結ばれた手を握り返すこともせず、地に足をつけた歩みも覚束なく、些細なことで転んだり痛くなる、覇気の無い信徒たちの霊性から、神を見上げようとせず、人間の努力で神に近づこうとする宗教に堕しました。主の言われた「わたしが道であり,真理であり,いのちなのです」(ヨハ14:6)とは主語がキリストご自身であること、「道」「真理」「いのち」が並列であることで、先ず信じていのちを得ることから、真理も人生も主の内にあると分かります。どこでどうして萎えてしまったのか。彼らは霊的回復を必要としていました。主が片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい。」と、御言葉通りに彼はいやされ、本書の著者も読者に同様に求めています。手も膝も曲がり、恐らく腰も首も、とても競技の選手に程遠い。いのちの御霊が体内を循環していないからです。以前は力に漲って主に目を留めていたのに、走るのを止めて忘れてしまった。全てを元通りにとはも乙女ていませんし、私たちの弱さは主がご存知です。それでも指を開き踏み台に足を乗せることから始めて、出来た喜びの背後に、従うなら伸ばせるからこそ、「まっすぐにしなさい」命じられたと気づきます。

けれどもあなたがたは回復して喜んでいる病人と違い、ランナーなのだと。だから早く試合に出られるよう練習に励み、走るべき道筋を整えることです。そして自分の道の選択ミスや、脇道に逸れて罪を犯した敗因を反省します。主を恐れてまっすぐ進もうとしない時、進む過程で厄介事に煩わされる時に、私たちは直感的に良いと思い、人に勧められ楽そうな別ルートを選びたがる。「まっすぐな道」は神の目に(箴3:6/14:2)、人の目に(箴14:2/12:15)の両方に。要するに「まっすぐに見える道」、イコール「まっすぐな道」という訳ではない。茨の道や凸凹で曲がりくねった道でも確信あれば、まっすぐにされるのです。洗礼者ヨハネ「主の道を用意せよ。~曲がったところはまっすぐになり,険しい道は平らになる」(ルカ3:4-6)彼は主が通られるため険しい道を整えることが自分の務めと心得ていました。私たちも主が喜ばれる道かが判断の基準です。ヨハネの道はまっすぐでしょうか。人の目にはどう見てもまっすぐではなく、信仰者の目にはまっすぐです。私たちは悔い改めと見分けと祈りが必要です。手と足と全身を主に伸ばし、道を歩む方は後進のため義の道を歩きましょう。
3月22日
試練として耐え忍びなさい
へブル12:4-11
武安 宏樹 牧師
1~3節で語られた三点が、キリスト者の行動の動機「訓練」に収斂します。この語は父から子への教育の意です。ユダヤ社会で教育は父の役目でしたが、子は愛のムチとして受け止め、好き嫌いを超えて親という切れない関係です。「肉の父はわずかの間,自分が良いと思うことにしたがって」教育しましたが、「霊の父」教育の内容と動機が、信者が全面的に信頼に値することを説きます。この「訓練」「懲らしめ」をいかに理解できるかが、私たちの成長に直結します。最高の模範は主の十字架で、父なる神の義しさ&聖さを満たすためさばかれ、それだけでなく愛をもった「懲らしめ」でした。皆さんは訓練を受けましたか。信者家庭といえども親の教育が聖書的で、主の愛と義に基づけば良いですが、表と裏の顔が違ったり、人間的動機が前面に出ていると反抗したくなります。私は未信家庭で聖書も知らず世の流れに身を任せ、親や先生に反抗しました。教会でも人間的不和を見て違和感を感じ、人を信頼することが分からずに、良くも悪くも「霊の父」しか信用できず、祈りと御言葉に頼るばかりでしたが、若気の至りで独善に陥りつつも、洞察が深められたことは今に生きています。

そういうわけで「訓練」の主体は「霊の父」、目的は「私たちの益のために」、印象は「かえって悲しく思われ」、結果は「義という平安の実を結ばせます」。私たちは多くの訓練を受け続けなければならない。決して快いものではなく、何故こんな目に?と思いますが、ここで受けるか受けないかの選択を迫られ、嫌だから逃げ回ると霊性が耕されず固くなり、されど御手が介入されるので、次の訓練の際は何倍も強烈な「懲らしめ」となり、非効率な不信仰生活となる。罪を犯さないように、腹を立てないように、デボーションを休まないように、「~しないように」消極的目標でなく、自分から主体的に訓練を求めましょう。一つ目は前回学んだように、耐え忍ぶことで簡単に行動に移さない訓練です。二つ目は「私たちの益のため」主が訓練されることを覚え、信頼することです。ということは嫌に思えることが、実際はマイナスでなくプラスになるのです。これは神の愛と聖に与らせるため、人間的な考えの明け渡しに因ることです。三つ目は「私たち」複数であるように、自分だけで完結の益でなく隣人にまで、キリストの肢体として共同体の益となり、訓練の終着駅は主の十字架です。
3月15日
疲れ果ててしまわないように
へブル12:3
武安 宏樹 牧師
何かあると元気を失くして疲れ果ててしまう、打たれ弱い霊性が見えます。余計な重荷を抱えていないか、主イエス以外に目を奪われていないか二点を、振り返るだけでも力が与えられますが、読者はさらに厳しい試練に置かれて、そこで「忍耐」が必要です。人にはそれぞれ家庭&社会でストレスがあります。「心がその人自身の辛さを知っている。」(箴14:10)所詮他人には分からない、自分でもよく分からない苦しみがあるもの。なぜ苦しみに遭うのでしょうか。

一つ目に最初の人が罪を犯したこと「苦しんで子を産む~食を得る」(創3:)堕落後早々に兄弟殺しが起こるように、地上では必然的に苦しみがあります。世界は際限なく国際法も憲法も無視して戦争をし、結局は自分が弱っていく。人間関係&国際関係などヨコの関係の不和と、人が創造主に背を向けて生き、人生の意味を見出せない絶望と、偶像に拠り頼む空しさはタテの関係の不在。人は生まれながらに苦しみを抱えている存在、その原因が罪ということです。解決策はAIが丁寧に教えますが、人は神の作品ゆえ罪人と認めないかぎり、罪に勝利することも人生に意味を見出すことも出来ず、人の本質は反抗です。地上の生涯は神への無駄な抵抗が砕かれきよめられると、主に強くされます。キリストの福音は「死んで生きる」。自分に死ぬと創造本来の自分が見えます。

二つ目にキリストも苦しまれたこと、これは最初の人の堕罪と無関係です。全能の御方ゆえ、私たちのように社会的&霊的にも苦しむ必要がありません。創造後に放置してサタンに丸投げしても文句言えませんが、そうはされずに、頑固で言うことを聞かない民のために、最終手段として愛息子を送りました。滅びの海に沈まんとする者に、浮き輪を投げて手を差し伸べるのは、愛です。「ご大切」(ギュツラフ訳)に想っているから神は苦しまれ、その結晶が十字架です。私たちが救われていない人のため祈り、離れている兄姉に声をかけるのは、主と同じ思いに満たす聖霊の働きです。罪や肉の思いからではない苦しみ、主と同じ道を選び取ったゆえ苦しむ光栄が、恵みによって与えられています。主が共に苦しんでいると分かると、言葉と行いに耐え忍ぶ心が出てきます。苦しみは神の視点ではほんの一瞬。十字架の彼方には天の栄光が見えます。