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礼拝メッセージ

12月14日

おことばどおりに
ルカ1:26-38
武安 宏樹 牧師
本章でエリサベツは妻でも不妊の老女、マリアは未だ結婚していない処女、そんな二人が各々御使いに妊娠を告げられて、同時並行の展開となっており、エリヤ再来と目される旧約最後の預言者ヨハネと、旧約の三大契約を更新し文字通り新しい契約を結ぶイエス。旧約と新約の架け橋が聖霊主導でなされ、御使いの出現にザカリヤは不信からしるしを求めて、口封じのさばきに遭い、けれどもマリアは不信ではなく、人間的常識を超えた不思議を問うています。精子と卵子の結合で初めて一つの生命が生まれますが、この仕組みの創設者、管理者は神ご自身なので、男女の関係無しでも神の御心なら特例は可能です。信じようとしなかったザカリヤに対し、信じても理解が及ばなかったマリア「どうしたら?」御使いの答は「神にとって不可能なことは一つもありません」方法論の疑問に対して答になっておらず、人間的に考えてかなり乱暴ですが、「どうぞ,あなたのおことばどおり,この身になりますように」複雑な胸中も、神の全能の働きと受け入れアーメン!と言う、素直さと大胆さがありました。名もなく卑しい女の信仰が、アロンの系譜をひく祭司の家系に勝ったのです。

「おことば」は「神にとって不可能なことは何もありません。」(37節)の直訳「あらゆる言葉は神にとって不可能ではない」(カルヴァン)同じ語が使われます。マリアは「おことば」に応えることで、「私は主のはしためです」へりくだりと従順を告白。頭で理解とか腑に落ちるではなく、発する神ご自身への献身で、これが神の最も願うことです。耳だけ頭だけ口だけ心だけの人は多くいます。「この身に~」体の一部でなく全体に「おことば」が浸透することを願います。言葉が交わされないと夫婦の心が離れ、外交の不在は国家に戦争を招きます。宣告後に御使いが去ったのは、マリアに「おことば」が浸透していたからです。私たちは人の言葉に縛られて生きています。親、夫や妻、先生や上司や牧師、各々拘束力が強ければ抜け出すのは容易でなく、同様に自分が他人を縛って、自分の期待が自分を縛ります。ザカリアの方が歳と経験ゆえ縛られています。マリアは預言者でも祭司でもなく、「私は主のはしためです」立場を明確にし、この告白は続く「どうぞ,あなたのおことばどおり」に先立つ条件となります。二つの告白を順番に、よく味わって言葉に出して心に浸み渡らせましょう。
12月7日
老夫妻の信仰
ルカ1:5-25
武安 宏樹 牧師
神殿奉仕者でアロンの家系は宮に入る祭司として、24の組に分けて重要な務めを与えられ(Ⅰ歴24:)、三大祭には全員が奉仕した他に年2回1週間の務めが約20,000人から、当選すれば生涯最高の奉仕と待ち望まれていました。ザカリヤが光栄な務めに選ばれたのは、聖書の定めと神の選びによりました。妻もアロンの家系で血筋も霊性も折り紙付き、朝夕に主に仕える夫婦ながら、何故か子が与えられず、その分を人一倍主に仕えようと少々歪んだ敬虔さも、あったかも知れませんが、何はともあれ当選に発奮し最善の奉仕をしました。ところが御使いと出くわす想定外の事態が発生「取り乱し,恐怖に襲われた」。「神の存在は単に畏敬の念を教えるために人間に恐怖をもたらすだけでなく,へりくだらせ,肉の傲慢を打ち倒してしまう。この傲慢さは非常に誇り高いので,人間はもしも大きな力で征服され,打ち倒されない限り,神に服従することは決してあり得ない。」(カルヴァン)私たちは日々当り前のように神の言を味わい聖所である教会で奉仕をしますが、神と出会うことを考えもしません。彼は人間的に忠実な奉仕でも、出会う備えの不在ゆえ神は恐れに捕えました。

ザカリヤは御使いとの出会いを受け止められず恐れたことと、口答えした、因果関係としては2つの不信仰ゆえにさばかれる、わかりやすい結果ですが、そんなに彼は駄目な信仰者だったのか?神は何をされたかったのでしょう?たしかに各論では以上の罪を犯しましたが、歴史的に天文学的な確率で当選、光栄な務めで史上最高の預言者の父となる、そもそも神の目的は砕く以前に、夫妻が絶望しかけながら願い続け、その真実な信仰が神の御心を動かして、選びと奇跡を行わせた大きな祝福にあります。誠実な人は概して出世します。けれども真面目だから大丈夫と隠れ蓑にするなら、神との出会いを妨げます。絶対に罪を犯さない!委ねられた奉仕に全力を尽くす!結構なことですが、私たちの中に聖霊が働かれる余地を残すのも必要です。ともかくザカリヤは、逃げず発狂せず務めを終えました。聖書の分量は夫が16節分で妻が2節分!この大差は優劣ではなく、与えられた役割や男女の受け止め方の相違です。エリサベツは体に感じてダイレクトに、神の奇跡の当事者として受けました。同じ祭司の家系の夫婦として、共に神を見上げ支え合う麗しさが存在します。
11月30日
大きな光を見る
イザヤ9:1-7
武安 宏樹 牧師
キリスト降誕から約750年前、預言者イザヤは同胞である北イスラエルと、さらにその北にあるシリヤ連合軍の攻勢におののく、南ユダに語りました。王も民もお先真っ暗で、人間的な知恵から南のエジプトに助けを模索するも、そのような小手先の手法は捨て、神に特別に愛された民であると思い起こし、主に信頼せよと。奇しくも王は不信仰なアハズから敬虔なヒゼキヤへ交替し、偶像礼拝と不品行を悔い改め祈ると、アッシリヤ軍は殲滅します(Ⅱ列19:)。

「しかし,苦しみのあったところに闇がなくなる。」(1節)前章までの暗闇が裂かれるように光が語られます。聖書の預言は近い将来と遠い将来の二重の山並みで語られます。ヒゼキヤやヨシヤら善王の治世には俄かに好転するも、結果的に捕囚から亡国の民に。しかし彼方に光しかない未来を断言します。闇が自動的に雲散霧消し太陽が射すのではなく、神に背を向けた背信の罪は、さばかれなければなりません。私たちは神の愛を屈託なく語りますけれども、主が私たちの罪と闇全ての代償で死なれた、神の義の厳しさを忘れています。

ダビデは信仰者でありながら、一度や二度の大罪で家族全体をさばかれた、神の恐るべき聖さです。キリスト者は十字架により赦しの恵みだけでよいと、そう考える人は、罪の自覚と掘り下げが不十分なので悔い改めが薄まります。聖霊は個別の罪以上に、御言葉に心を開かない傲慢や傷に関わろうとします。「明け私」が出来ない信者は、未信者以上に悲惨な闇の人生を歩き回りますが、両者ともに耳を傾けるべきは2節のメッセージで、自分の闇を認めることで、光が射します。全てのさばきを受けられた主は優しい光で闇を照らされます。

不潔で人の住む処でない飼い葉桶から、ヘロデの死の手から守られ静かに、「私たちのために」主はお生まれに。「不思議な助言者(Wonderful Councelor)」静かに耳を傾けつつ私たちの横に座る優しさと、「驚くべき指導者」(新共同)「霊妙なる議士」(口語)政治的には代議士、軍事的には参謀とも受け取れます。愛と義と聖と慰めと励ましと行くべき道の光が、闇を覆うように広がります。主の似姿に変えられて光に征服される喜びを、私たちは弱さから体験します。
11月23日
地上では旅人
へブル11:13-16
武安 宏樹 牧師
私たちの「故郷」について考えます。皆さんの故郷(ふるさと)は何処に在るでしょうか、どんな景色でしょうか?文部省唱歌&Home Sweet Home「埴生の宿」(讃Ⅱ147)&「サライ」(加山雄三・谷村新司)&「ふるさと」(嵐)etc.叙情的な歌は数多く、時代を問わず人の心には、望郷の念が刻み込まれまれていることを思います。元気なうち祖国の土を踏みたい、親しい人に会いたい思いは誰にもあります。けれども必ずしも良い思いだけでなく、複雑な家庭環境や戦争の痛みを抱え、思い出すだけで苦しむ人もいます。私たちはアブラハムの如く信仰によって、幼時を過した故郷の光景から一歩ずつ踏み出して、心も体も大人になります。

「そのように言っている人たち」は地上の故郷に後ろ髪を引かれることなく地上で安住の地や結果を見出した訳でもないのに、「天の故郷」へ歩む人々で、「信仰の人として死にました」生前は際立った業績を見ることは適わずとも、後世に莫大な富を遺し、「苦難⇒忍耐⇒練達⇒希望」(ロマ5:3-4)原則に立って、自分に対してではなく、将来に成就すべき神の祝福の希望に立っています。ここに世人が願う故郷との違いがあります。アブラハムは過去へ戻ることもできましたが、神の奇蹟&御声を通して臨在を味わい信仰の手応えを感じて、御国への歩みをやめませんでした。「旅人/よそ者(共同訳)/alien(英NIV)」で「寄留者/滞在者(共同訳)/stranger(英NIV)」であることを喜んでいますか?地上に故郷が無いのは寂しいでしょうが、世に執着せず楽になりませんか?

「故郷(パトリス)」の派生語には、祖先&家族(パトリア)、父(パテイル)があります。主イエスの故郷は地上の何処でもなく、父の居られる天の御国に在ります。主は最高の旅人&寄留者。世から理解されずとも常に父との親密な交わりを受けていました。世の全ての人々が本当の故郷を自分のために求めています。キリスト者は主との交わり、内なる聖霊の臨在が最高の故郷として存します。地上では故郷を後にした者ですが、たましいの故郷を永遠に持っているので、移り行く人間関係や評価に振り回されず、この故郷には最高の愛があります。旧約時代の先達は天の故郷へと歩みましたが、キリスト者は内に得ています。自分探しに明け暮れる人は多くても、私たちは最高の旅人&ホームレスです。