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1月16日

仕える愛②

ヨハネ13:2-11
武安 宏樹 牧師

HBC小学最終夜6年生タイムで、若者用語「エモい」と好評の洗足ですが、これほど主の性格と愛を示す箇所はなく、十字架の型として「深い」ものです。構造は2~3節が分詞として4節の主動詞に従属しますが、ユダの裏切りを知っていたにもかかわらず、主イエスは食事中に奴隷の仕事たる洗足を始め、弟子たちの主でありながら、ご自分から低くなることで栄光を現されました。子が離れる、それも裏切って殺されるのを知りながら、喜んで仕えることが、見返りの望み無く命を捨てることが親に出来るでしょうか。「脱ぐ」(4節)は、「捨てる」(10:11)と同じ語で、これから十字架で何をなさろうとしているか、デモンストレーションをしています。神の子たる冠を捨て、王服剝ぎ取られ、重罪人の刑罰という不名誉を受け、裸の王様として死んでいく者の弟子が、あなたがたなのだと。それは律法の知識を蓄えて周囲から優秀と認められて、弟子として所作を身に着けるなど積み上げではなく、「古い人を脱ぎ捨て」とあるように、プライドも能力も財産も捨てるのが主の弟子です(エペ4:22,24)。

されどペテロはそんな十字架道の深さや一方的な愛など、悟ることもなく、そんな奴隷がするような仕事は、代わりに私が洗って差し上げますと言って、主の奉仕を制止しようとします。良く言えば彼なりの礼儀とか人情でしたが、逆に言えば私でも出来るという、霊的視野の狭さから来る傲慢がありました。以上の言動は罪深いものでしたが、何でもよいから主のお役に立ちたいとの、一途な姿勢は評価できます。自分の感情や考えを臆せずぶつけて恥かくのを、厭わない点が彼の長所です。「後で分かるようになります」では腑に落ちずに、二言目「関係ないことになります」絶縁処分になったら大変だと反応します。だったら体全部と差し出すのは、主がきよめ主との理解は正しかったものの、洗足が救いの「手段」ではなく、救われた者が死に至るまで従順を示す「象徴」という理解には未だ至りませんでした。この感覚&理解&悔改めが彼の中で符合したのが、十字架と復活の後に身に沁みて自分の罪深さを悟った時です。この洗足は最後の晩餐の席上で行われました。救われた者が主の御体と血に与ることを、私たちは聖餐式の中において悔改めと聖霊の中で確認しますが、さらに主の謙卑の御姿を覚えて、愛の中で互いに仕え合って生きましょう。

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