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礼拝メッセージ
8月9日
殺してはならない
出エジプト20:13
武安 宏樹 牧師
第6戒は幼子でもわかることです。平常時の国家なら殺人は罰せられます。戦争は世の不条理の最たるものであり、勝っても負けても禍根を残します。殺人は法に問われるか以前に、個人的にも社会的にも害をもたらすものです。創造主の「殺してはならない」戒めは、全ての人や状況に対し厳粛な命令です。何故人を殺してはいけないのか。それは人が神のかたちに造られたからです(創9:6)。神が憎むのは行為以前に、神のかたちを傷つけようとする罪です。いかにして隣人および自分の内にある、神のかたちの素晴しさを祝福するか。殺さない、傷つけないだけでなく、愛すること、健康と成長を促すことです。武安 宏樹 牧師
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように」(ヨハ13:34)主イエスが「新しい戒め」と言われ、タテとヨコの関係が交差する「第11戒」で、この至高の愛は人間の知恵では届き得ない、教会にしか見られない愛です。「御霊の実は愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制」(ガラ5:22-23) まず自分にキリストの愛を適用し、神のかたちを妨げる傷を悔い改めること。そのうえで隣人に対し無条件に愛すること、違いを超えて存在を喜ぶこと。罪と世と悪魔の支配を打ち破る愛が、私たちキリスト者に与えられています。他者の人格を貶める時代に、教会を通し世に霊的影響の拠点とされましょう。
「わたしが、思いにより、言葉や態度により、ましてや行為によって、わたしの隣人を、自分自らまたは他人を通して、そしったり、憎んだり、侮辱したり、殺してはならないこと。かえってあらゆる復讐心を捨て去ること。さらに、自分自身を傷つけたり、自ら危険を冒すべきではない、ということです。そういうわけで、権威者もまた、殺人を防ぐために剣を帯びているのです。」(ハイデルベルク信仰問答105)
「それは、だれのであれ不正に命を奪うようになるすべての思いと企てを制御し、すべての感情を抑え、すべての機会・誘惑・習慣を避けることにより、暴力に対する正当防衛・神の御手を忍耐して辛抱すること・精神の平静・心の喜びにより、食物・飲物・医薬・睡眠・労働・娯楽を適度に用いることにより、慈悲深い思い・愛・同情・柔和・温順・親切により、穏和な礼節ある言葉づかいや行為・忍耐・進んで人と和らぐこと・傷害を忍んで耐えまた許すこと・悪に報いるのに善をもってすることにより、また悩む者を慰め助け・罪のない者を保護し防御することによるのである。」(ウェストミンスター小問答135)
8月2日
父と母を敬え
出エジプト20:12
武安 宏樹 牧師
十戒後半の人に対する社会規定に入ります。真の神を正しく畏れる者のみ、立てられた権威を認めて服従できます。系図を辿れば最初の人アダムを経て、神に行き着くことから、前半の神に対する宗教規定に含める見方もあります。「敬え」原語は'重んじる''栄光'の意。神はなぜそのように命じられたのか?「私が私の父や母,また全て私の上に立てられた人々に,あらゆる敬意と愛と誠実を示し,全ての良い教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し,彼らの欠けさえ忍耐すべきである,ということです。なぜなら,神は彼らの手を通して,私たちを治めようとされるからです。」(ハイデルベルク信仰問答104)
家族の年長者、学校や教会の教職者、職場の上司や先輩もここに含まれます。神がその立場に置かれて、家庭や社会や教会で権威を代行委任しているから、尊敬しなさいというのです。エペソ5~6章で夫婦&親子&主従の3関係が、下にある者の義務だけでなく、上に立つ者の義務についても対等に命じつつ、キリストの姿に倣うよう、双方の愛の交わりから神のシステムを尊ぶことを勧めます。聖書における人間関係は秩序を尊びつつ互いに愛し合うものです。武安 宏樹 牧師
「愛は寛容,親切,妬まず,自慢せず,高慢にならず,礼儀に反することをせず,自分の利益を求めず,苛立たず,悪を心に留めず,不正を喜ばず・・・」(Ⅰコリ13:) 親や上の人に敬意を表し、たとえ戒めが必要な時も謙遜な気持ちで諫めれば、耳も心も開かれます。とはいえ立てられた秩序でも難なく出来る人は少なく、親に暴力、先生に体罰、上司にパワハラ、友人にいじめを受けてきた子が、どうやって表すことができるでしょう。先述の信仰問答で①敬意と愛と誠実②ふさわしい従順③欠けを忍耐する、以上三点のうち①②は困難だとしても、③に努めてはいかがでしょうか。キリスト者はキリストの似姿に変えられて、私たちのうちには聖霊によって、十字架の血潮と主のDNAが流れています。第5戒は後半部の対人関係に属しつつ、前半部の対神関係の架け橋でもあり、傷ついた記憶に苛まれる私たちの愛の欠けを、キリストに素直に従うことで、第1→第2→第3→第4と守ろうとするならば、恵みが隣人に届くのです。主に妥協無く仕える人は親や上の人への姿勢も変わります。時間かかっても、主は私たちを見ておられます。破れ口にキリストに立っていただきましょう。
7月26日
まことの安息
出エジプト20:8-11
武安 宏樹 牧師
① 神を覚えるため武安 宏樹 牧師
安息の起源は創造の記事に遡り。6日目に最高の作品である人間が造られ、「われわれのかたちとして,われわれの似姿に」明らかに他の被造物と異なり、神の特別な思い入れと愛情といのちの息を込められ、特別な使命を与えられ、「こうして,天と地とその万象が完成」創造6日間ベリーグッドでした(創1:)。「神は第7日に~すべてのわざをやめられた」ここに休みの起源があります。ひととおり6日で仕上がっても、休みを経た7日目こそ完成と強調します。この休息に何の意味があるのか。人が神の休みに倣って手を休めるためです。他の被造物で安息日をとるものは無く人間だけ。だから休まないといけない。'月月火水木金金'で働き詰めだと、他の動植物と同じで霊的生命を失います。昨年流行語大賞「働いて,働いて,働いて,働いて,働いて・・・」首相の弁ですが、長時間労働の奨励に非ずとのことですが、「日本の経営者」が背中を見せれば、国民は当然ついて来るべしと暗に語っている、国家の奴隷と化す感がします。もしも休みを許さない時代が来るならば、結局は人間と社会が病んできます。
② 人を休ませるため
神に倣って休む。手を休め、心を休め、霊を休めると明日の力が湧きます。頑張るのを止めないと心身バラバラに。深いところにおられる神と向き合い、愛と力をいただいて、いやしと慰めを受け取る日。'聖=分離'特別な日です。イスラエルの民が前日にマナを2倍集めよと。安息日に神を見上げるためで、一部が従わずに安息日に働くもゼロでした(16:)。何故休みを拒否したのか。不従順に加え、エジプトの強制労働から奴隷根性が染みついたのではないか。貧乏性的に働かないと落ち着かず、主体的な御言葉と信仰の成長を阻害して、うまくいかないと人のせいにする、彼らの霊性の深みには偶像がありました。救われてもなお主に憩うことをせず、悪魔的な奴隷心に冒されていませんか。「生涯の全ての日において,わたしが自分の邪悪な行いを休み,わたしの内で御霊を通して主に働いていただき,こうして永遠の安息をこの生涯において始めるようになる,ということです」(ハイデルベルク問103)安息に終わりは無く、創造7日目は安息のスタート。この恵みは全ての霊性の出発点また訓練です。
7月19日
乱用しない信仰
出エジプト20:7
武安 宏樹 牧師
「第三戒で何を求めていますか。」「私たちが呪いや偽りの誓いによってのみならず、不必要な誓約によっても、神の御名を冒涜または乱用することなく、黙認や傍観によっても、そのような恐るべき罪に関与しない、ということで、要するに、私たちが畏れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いない、ということ。それは、この方が私たちによって正しく告白され、呼びかけられ、私たちの全ての言葉と行いとによって讃えられるためです。」「しかし、神の御名によって敬虔に誓うことはよいのですか?」「その通りです。権威者が国民にそれを求める場合、あるいは、神の栄光と隣人の救いのために、誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合です。」(ハイデルベルク信仰問答99.101)」武安 宏樹 牧師
聖書に手を置き就任宣誓する米国大統領が、利権争い以外何物でもない、イラン戦争の正当化のため、支持基盤である福音派の指導者たちともども、善悪二元論に単純化した上で、神の加護を言葉やAI画で宣告しています。金と権力と大言壮語が幅を利かす歪んだ世界で、主の御名を口にするとは、どういうことなのか。主イエスはさらに厳しく「みだりに口に」することは、悪霊の業と断じます(マタ5:37)。私たちの口も聖められていないと痛感しつつ、主は私たちの祈りをどう見ておられるか。祈りの答を受け入れる心の準備と、自分を棄てる覚悟が出来ているのか。「求める前から、必要なものを知って」おられる主イエスに対して、心の底から単純な信頼があるのかが問われます。
主の祈りは御名を「みだりに口に」したがる、私たちへのチェックリストで、父の名を絶対に「みだりに口に」しない御子が、「こう祈りなさい」教えた祈り、私たちがこんなにも無駄に空しく唱えていたかと、悔い改めを促す祈りです。されどそれだけで満足せず、「権威者が国民にそれを求める場合」告白すべき、こういう時には命をかけて世に向けて、主の御名を唱えなければなりません。不利益や危険も伴いますが「天においてあなたがたの報いは大きい」(マタ5:12)よくやった、忠実な僕だ!と主に歓待されることを、目的といたしましょう。そのような必要以外にも、「神の栄光と隣人の救いのため、促進」しましょう。「私たちは御名を真理や善きことのために用いるよう命じられている」(ルター)