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礼拝メッセージ

6月7日

恵みによって心を強くする
へブル13:9-13
武安 宏樹 牧師
ヘブル人教会の一部に、特定の食物を食べたり食べなかったりすることで、律法に拘束されて霊的に力を得られると考えていた者が、いたと思われます。パウロは福音はそういうものではないと警告しています(Ⅰコリ8:8/ロマ14:17)。「信仰」「恵み」に実感が湧かず、救いの確信が乏しいので昔から親しむ教えに、戻ろうとしていたのでしょう。信仰とは今も我が内に生きて働いておられる、主イエスと個人的関係に生きること、恵みとは救われよう成長しようとする、努力に死んで天から伸びる手で生かされることです。恵みと信仰以外から、活路を見出そうとする者は跡を絶たず、禁欲の狭い世界の中でもがいてます。このことは律法や霊的習慣を軽視しているのではなく、キリストの救いとは、救われた者として、聖霊に導かれつつ悪習慣を絶ち敬虔な生活を喜ぶのです。人の罪深さは自分の祈りや奉仕の量で、神の祝福を取り引きしたがることで、うまくいけば心が高揚し、いかなければ落ち込み、他の方策に乗り換えます。恵みと信仰に歩むには努力以前に、7割の力で聖霊の働きに部屋を明け渡す、意識改革と長い訓練を要します。黙想し思考を働かせ主を賛美する生活です。

11~13節では「外」が3回、「出て」も「外」「行く」合成なので実質4回登場し、あなたがたの罪は律法の外、宿営の外、町の城壁の外で焼かれたということ、主は御子としてではなく、罪人の一人として追放&遺棄されたと語ります。「そういうわけで,弟子である私たちも,今の安住の地に満足をしていないで,そこから出て,主イエス・キリストと共に苦しみを負わなければならないわけです。それが出来るように主は私たちに力を与えてくださいます」(尾山令仁)律法主義に縛られて安住主義に慣れたままでは、信仰と恵みが見えません。聖霊は私たちを見たこと無い、可能なら見たく無い外の世界へ連れ出します。争いを好まず穏便に事を収める平和主義者で良い点もあれば、新しい旅路を妨げることもあります。出て行くとは自分の居心地良い環境に背を向けて、町の外に武装し信仰の戦いをすることです(エペ6:12)。自分が出て行く前に、「イエスの辱めを負う」覚悟があるのか。行き先々で恵みが先立って勝利する確信があるのか問われます。「みもとに行こうではありませんか」直訳すると、「彼のところに出て行こう」。主の在所に出て行って恵みで強くされましょう。
5月31日
だれが天に上るか
箴言30:1-4
武安 宏樹 牧師
①愚かさの自覚(2節)
「粗野」は獣にも通じ「愚か者」「間抜け」とも訳されます。作者の自己認識で、そんなに彼は「粗野」「分別のない」人かといえば、傍から見れば違うでしょう。自分の愚かさを認める人は、神がどんな御方か自分との落差を知っています。たとえ話「パリサイ人と取税人」(ルカ18:)のように、完全無欠を自称する者は、主イエスの介入の余地がありません。対する取税人は自分に救いの価値無し、天からの介入しか活路無し、だから恵みが降ってくるのを待つほかなしと、知っていました「医者を必要とするのは,健康な人ではなく病人」(ルカ5:31)。罪深く愚かで分別が無い、以上の自覚こそが主に近づけられる霊性なのです。

②神の知恵と知識を求める(3節)
「知恵も知識も持っていない」と言うものの、作者は真っ直ぐに主を求めて、「神のことばは,すべて精錬されている」(5節)きよめられた者の告白です。契約の民として精一杯学んだとしても、全能の神を知り尽くしたとは言えず、教会や宣教区などで重要な奉仕に励んだとしても、自分の浅識にうなだれる。神を求める者に人の評価も伴いますが、高慢になりやすい若者には罠となり、倒され人が離れます。神の創造の素晴しさを称え、御子の十字架に依り頼み、聖霊の臨在に励まされ、真に神を知ることでどれほど知らなかったかを知り、にもかかわらず神の愛と聖さは十分と痛感する。以上繰り返して成長します。

③だれが天に上るか(4節)
ヨブを想起します。彼は誰よりも神を知り、理不尽な苦難と孤独の中でも、友人たちの言葉に倒されず、ひたすら神に問い続け返答を求め叫びました。「ああ,できるなら,どこで神に会えるかを知って,その御座にまで行きたい」(ヨブ23:)彼は非の打ち所の無い人物であり、パリサイ人のような一方通行の熱心さとは異なり、さばきを含めて神の御手を受け入れる俊敏な霊性でした。けれどもあえて神が沈黙されたことは、「天に上った者」(ヨハ3:13)キリストのみ栄光を受けるためでした。彼が砕かれる前に易々と神が天の門を開けば、自分の業ゆえと錯覚します。天から手が伸びて初めて人は応答できるのです。
5月24日
変わることがありません
へブル13:7-8
武安 宏樹 牧師
キリスト教三大祭の一つで旧約聖書の五旬節ごじゅんせつ、ちょうどその時主の昇天後、一つ所に集まっていた弟子たち他の上に、生前の約束通りに聖霊が降られて、彼らは未だ教えられたことのない外国語を語り、世界中に教会を生みました。以降2000年間のキリスト教史は時に権力と対峙し、あるいは保護されながら、紆余曲折を経つつ、欧米からアジア&アフリカ&南米や、近年イスラム圏も、宣教の御霊は世界中で魂の救いと、教会の建て上げのため今でも働かれます。教会には「指導者」が立てられ、本書は11章の旧約時代の偉人たちに始まり、12章「イエスから目を離さないで」を経て13章は存命中の先達に倣うべしと。著者は真実な信仰に信頼できない彼らに、指導者の愛と聖さを思い起こさせ、励まそうとしているようです。教会も歴代の牧師に指導を受けて成長しつつ、その反面で人間的側面につまずく人や、逆に全て神の摂理の中にあると信じ、受け止め悔い改めつつさらに成長する人も。私たちの信仰生活も人を通して、受けることの方が、個人的な神との関係や聖書よりも実際は多いと思います。「自分たちの集まりをやめたりせず,むしろ励まし合いましょう。」(10:23-25)

一方でどんなに優れた「指導者」にも限界があります。尊敬していた人でも、大きな罪を犯して離れたり、傷つけられたり、転任したり、そして死にます。人間関係は主の恵みですが、裏切られ取り去られる時に信仰の真価が問われ、そこで著者は「イエス・キリストは,昨日も今日も,とこしえに変わることがありません」と。私たちへの愛が信仰の不調や罪などマイナス要因で変わらず、聖さが昔は良くても今は自堕落に変わらず、方針が左にも右にも変わらず、何よりも死ぬことが無く、生前の著書や弟子の証言のみの過去の人ではなく、天地創造のはるか前から居られて、人類の全ての歴史も痛みも共に味わって、今も最高の指導者として内なる御霊が、世の終わりまで責任持って導きます。人の心は変わります。世の動きも変わります。政治も経済も道徳も乱れます。そうしたら世の人は何に頼るのか、右往左往し迷いながら滅びに向かいます。けれども私たちはキリストの不変を、王の王&主の主として諸権力を束ねて、世界も歴史もたった一声で終わらせる。この最高権力者が私たちの見方です。指導者の教えを大切にしつつ、目線はキリストに死も恐れず見上げましょう。
5月17日
見捨てない神
へブル13:4-6
武安 宏樹 牧師
性生活(4節)&経済生活(5節)の満足から、十戒の第7&10戒を覚えつつ、著者は目に見える人や財ではなく、主ご自身に思いを向けることを勧めます。満足の根拠「見捨てない神」は、十戒前文「わたしは、あなたをエジプトの神、奴隷の家から導き出したあなたの神,主である」契約と救いの主にあります。この前文が第1~10戒の前提であり、前半1~4は人間から神への宗教規定、後半5~10は人間同士の社会規定で、特に後半を守れば世の法も抵触せずに、常識人として生活できます。この後半部は主との正しい関係があって初めて、殺人&盗み&姦淫&貪欲から守られます。多神教のエジプト&バビロン等は、発達した宗教文化を有せど倫理が低くなり、日本も絶対的な価値基準が無く、何が正しいかよりも権力者とメディアが喧伝すれば、流されてしまいます。金と偶像が支配する世で第1戒を掲げて悪魔に抗すれば、必然的に血が流れ、一粒の麦と成ります(ヨハ12:24)。第2戒「ねたむ神」は民との排他的関係です。主イエスは十戒前半を要約し「心を尽くし,いのちを尽くし,知性を尽くし」神を恐れて愛すること、ここから後半部の隣人愛が始まります(マタ22:34-40)。

十戒後半は具体的行為の戒めですが、最後の第10戒は貪り、心の中の罪で、「あらゆる罪悪の根源」(ルター)殺人&盗み&姦淫&偽りもここに端を発します。よって十戒の構造は第1が以下に影響を与え、第10の罪性が底に遡上します。悪魔の性は神の座を欲しがる貪欲で、ダビデが後半規定全てを破ったことも、イゼベルがナボテの葡萄畑を偽証し奪い殺すのも、いずれも根底は貪欲です。貪欲は世の法に抵触しない代わりに、どんな人間も克服不可能な利己主義で、つまり創造主を心から信頼しなければ、解決の道無きことを十戒は示します。以上の構造を理解することで、「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか」(6節)が分かります。平和な時代は法の秩序に基づいて、罪の力と悪魔の活動がある程度抑制されますが、今は欲望を剥き出しにして、政&財&宗教界が襲い、良心を麻痺させ善行を非難する一方で悪事を奨励し、大量の予算が武器とメディアに流れて、与しない者を締め出そうと躍起です。私たちは十字架途上の主を思います。敵は群衆を扇動して教会を潰そうとも、主の激しい怒りと真理を求める者が殺到します。恐れつつ待ち望みましょう。