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礼拝メッセージ
10月12日
集まりをやめたりせず
へブル10:23-25
武安 宏樹 牧師
「わたしについて来なさい」(マコ1:17)主イエスはご自分の目的のために弟子たちを選んで集めました。教会は復活された主が昇天後に天から聖霊が降り、
世界各地に生み出されたものですが、原型は主を取り囲む弟子たちの群れで、教会の主体は人の側ではありません。人間的に見れば経緯は様々でしょうが、摂理の神が私たちをここに呼び集めました。主がどのような訓練を施したか。もちろん聖書を教えますが知識に留まらず、どのように奉仕に向かわせるか、弟子自身で動機を考えさせ、主イエスは常に一緒にいて背中で教えています。教会は神への愛と隣人愛を深く学びつつ悔い改め、人格が感化される場です。本書の読者たちは律法を厳守して、神を愛することに熱心だと思われますが、互いに兄弟愛をもって愛し合う隣人愛はどうか(マタ22:39/ヨハ13:34/ロマ12:10)、この有無が教会の試金石です。互いに受け入れ合い寛容な心で赦し合うのも、さばくべきところでさばくのも愛。本日の箇所は隣人愛を要とする勧告です。「ある人たちの習慣」旧約的な律法と祭儀のシナゴーグへの回帰を危険視し、裏を返せば愛に飢え渇き交わりに失望し、教会を去る者へ危機感を感じます。
武安 宏樹 牧師
キリスト者になるとは愛の学校に入ることで、主の弟子を真剣に志すほど、隣人愛の浅さに気づきます。他人をさばく者は返す刀で斬られます(マタ7:1)。言葉や態度に愛が無いと気づけば早く悔い改めることですが、やり過ごすと、御手は日毎に重くなります。主とのタテの交わりと隣人とのヨコの交わりは、連動しています。新約の教会が旧約のシナゴーグと違うのは、人となられた主のように私たちが愛の人となる学校であることで、人格の実をつけるため、聖霊は刈り込みを行います(ヨハ15:2)。「集まり」は「シナゴーグ」「上に」合成語、「新しい増員で拡大した会議」(カルヴァン)ヘブル人だけで完結していた集会から異邦人が加えられていくと解します。私たちが個人的&教会的に必要なのは、新しい御霊が注がれて器が広げられるために、常に革袋を新しくすることで、守りに入るのでなく変えられることです。勧め3つを受け止める視座として、「その日の近づいている」再臨を目的とします。終わりの時は近づいています。教勢の厳しい今日に希望とすべきは、一人でも多くの人に福音を伝えること、脱落しないよう励ますこと。摂理を恐れつつ真実な交わりを交わしましょう。
10月5日
この新しい生ける道
へブル10:19-22
武安 宏樹 牧師
① 主イエスが開かれた道武安 宏樹 牧師
旧約時代の聖所と至聖所の間は垂れ幕で隔てられ、年1回大祭司のみ入ることが出来ましたが、来るべきキリストの救いの予行演習を行っていました。だから老シメオン&アンナの待望は、異常な神への信頼がありました(ルカ2:)。人の目には救いは遠く、どれほど聖ければ入れるのか掴み所無いものでした。ところが無数に献げられた獣に代わり、ただ一度の肉体といのちを投げ出し、主が息を引き取る瞬間に起きたのは、垂れ幕が上から裂けたことで(マタ27:51)堕落後に閉鎖されたエデンへの道が全面開放。主曰く「わたしは門」(ヨハ10:9)悔い改めて信仰告白するなら、民族や宗教や貧富や罪の多寡も差し支えなく、罪の重荷から解放されて、「大胆に」「はばかることなく」(口)聖所に入れます。キリスト者は額に印が刻まれ「顔パス」で、地上の聖所と天の御国に入れます。以上恵みをまとめましたが、私たちは「大胆に」聖所へ入っているでしょうか。原語「入ること」は「道」(20節)に前置詞「中へ(=into)」合成語、入場券の意で、私たちは聖い恐れを持ちつつ「大胆に」入らないと、主イエスに失礼なのです。
② 私たちは近づこう
21~22節には祭司に定められた一連の所作が、キリストの犠牲に含まれて、私たちの罪に血&きよめ&洗いも完了し、救いが満たされることを示します。同時に性質はきよめの途上で、どれだけキリストと真実に結びついているか、悔い改めと赦しに立つ素直さ謙虚さが求められます。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(ヨハ15:5)ここにキリストと信者の神秘的結合が語られ、「わたしの愛にとどまりなさい」と命じられます。漠とした旧約時代に比べて、一気に近くなり内側にまで来た新約時代は、求められるものが多くなります。御霊の実「愛・喜び・平安・寛容・・・」(ガラ5:)と、賜物(ロマ12:/Ⅰコリ12:)の恵みは、私たちの俗悪な人格に浸透し、教会の奉仕を食い合いから相互理解に導いて、両者は補完関係にあります。私たちは御霊を通して多くの力を注がれ(使1:8)だからこそ「近づこうではありませんか」原語は私たち自身近づくだけでなく神に引き寄せられる(=draw near)意も含ます。主との距離感はどれ位ですか。立ち止まりイエスさまここに居られたかと気づく、体感が求められています。
9月28日
神の右の座に着いた大祭司
へブル10:11-18
武安 宏樹 牧師
本書はここまでキリストご自身の犠牲が、人が聖所で献げる犠牲より優ることを説明して第一部が終了し、19節以降は第二部として力強い勧告です。本日の箇所はキリストの御業の過去&現在&未来が記され、動詞の時制には、11節で人間の「礼拝の務めをなし」「献げ」に現在形で継続的・エンドレスの意、12節は主の「献げた」に不定過去で一回完結の意。13節「待っておられます」に現在形で今の在り方を、「敵がご自分の足台とされる」未来の勝利を語ります。したがって今の私たちは救いの完成から、終末の審判までの待機期間です。14節「完成された」は完了時制で、過去の御業が現在まで有効であるという意、「聖なるものとされる」は現在形で、私たちの聖化が今も働かれると示します。御国で歴代の信仰者が「御前」に在るのと違い、主は「神の右の座」で同格です。僭越にも主の右の座を求めた弟子たちは、主の杯を受けることに同意をして、願いと全く違う形で主の死に倣い、彼らの我儘は最期に聖められていました。地上で人と共に生きた御方が、今や天の玉座に在すことをいかに意識するか、この玉座はさばきの座で、常に天を見上げ恵みと鞭の御手を見ることです。武安 宏樹 牧師
急成長する初代教会で按手を受けた「信仰と聖霊に満ちた人ステパノ」は、権力者たちを前に人殺し&裏切り者と喝破。激怒する彼らを後押ししたのは、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」発言これで彼らはキレました。ステパノは聖霊の満たしで死と敵対者を恐れずに、天の幕屋に着座して応援する主を見続け、彼も死んで一粒の麦となりました。激しく地に落ちた種は傍らで迫害に同意していた、青年サウロを変えました。後のパウロはステパノの霊が遷ったかのように、最高法院で証し殺されかけ、「疫病のような人間」(使24:5)と戦慄を呼びます。聖霊の満たしは狂気なのか、人の顔色を伺わず天を見上げて福音を語るからそうで、結果喜んで死ぬのは、殉教の道を知るキリスト者の専売特許です。とはいえ殉教の美化は禁物です。彼らは死の直前まで戦い抜き、ステパノが直視した右の座はさばきの座です。主は終わりの日に羊飼いが羊を右に永遠のいのち、山羊を左に永遠の刑罰に、選別する恐るべき光景を語ります(マタ25:31-46)。私たちは神の右の座に在す主を恐れましょう。奉献完了から終わりの日に向かう主の足音が聞こえます。
9月21日
荒野の只中で臨在の主をほめたたえる
詩篇63:1-11
入川 達夫 師
本篇はダビデがユダの荒野で生活していた時に書かれたもので、特に彼の子アブサロムの反乱による苦難の中での信仰を表している。私たちは今あたかも荒野の苦難の中にいるような世の終わりの時代に生きている。私たちもダビデが経験した荒野の生活に象徴される様々な問題を抱え、不安を感じながら日々を過ごしているのではないか。荒野という厳しい環境において、ダビデはどのようにして神をほめたたえることができたのか、その姿には私たちが励まされるべき信仰の姿勢が映し出されている。その意味で、ダビデの信仰の姿勢から学び取ることは多い。入川 達夫 師
第一に、ダビデが荒野で求めた「神の交わりへの強い渇望」に驚かされる。彼は乾ききった荒野で水や食べ物を真っ先に求めたのではなく、まず神との交わりを心から渇望している。彼にとって、肉体的な必要よりも神との交わりが何よりも大切であり、神との親密な関係を強く求めている。このような信仰はダビデが日常的に途絶えることのない神との交わりを第一義にしていたことから生じているのである。
第二に、ダビデは荒野の只中でそこに居ます神の臨在を感じ、荒野の中で喜びと讃美に満ちた生活をしている。エルサレムの聖所から遠く離れた場所にあっても、神の臨在の象徴である聖所における神の栄光をその只中で見ていた。このことは彼の信仰が一時的な環境に左右されず、周囲が厳しい状況であっても、臨在の神を信じる信仰に立っていたことの何よりの証拠である。
第三に、ダビデがなぜ荒野の只中でこうした信仰生活を送れたのか、その根拠が示されている。それは神の「恵み」によるもので、これは決して破られることのない神の契約の愛に基づくものである、彼はこの神の恵みにとらえられて荒野での生活を支えられていた。
<結び>
私たちは人生の中で、苦しみや困難に直面することがあるが、その只中で生ける神の臨在を信ることが重要である。苦難の中でこそ生ける神との濃厚な交わりを求め、また神の変わらぬ愛を信じ、神のみことばに触れ続ける生活が求められている。こうしてどんな困難な状況に置かれたとしても、このお方を信じる信仰に立つことが、現代に生きる私たちにとって力なのである。