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礼拝メッセージ

7月26日

まことの安息
出エジプト20:8-11
武安 宏樹 牧師
① 神を覚えるため
安息の起源は創造の記事に遡り。6日目に最高の作品である人間が造られ、「われわれのかたちとして,われわれの似姿に」明らかに他の被造物と異なり、神の特別な思い入れと愛情といのちの息を込められ、特別な使命を与えられ、「こうして,天と地とその万象が完成」創造6日間ベリーグッドでした(創1:)。「神は第7日に~すべてのわざをやめられた」ここに休みの起源があります。ひととおり6日で仕上がっても、休みを経た7日目こそ完成と強調します。この休息に何の意味があるのか。人が神の休みに倣って手を休めるためです。他の被造物で安息日をとるものは無く人間だけ。だから休まないといけない。'月月火水木金金'で働き詰めだと、他の動植物と同じで霊的生命を失います。昨年流行語大賞「働いて,働いて,働いて,働いて,働いて・・・」首相の弁ですが、長時間労働の奨励に非ずとのことですが、「日本の経営者」が背中を見せれば、国民は当然ついて来るべしと暗に語っている、国家の奴隷と化す感がします。もしも休みを許さない時代が来るならば、結局は人間と社会が病んできます。

② 人を休ませるため
神に倣って休む。手を休め、心を休め、霊を休めると明日の力が湧きます。頑張るのを止めないと心身バラバラに。深いところにおられる神と向き合い、愛と力をいただいて、いやしと慰めを受け取る日。'聖=分離'特別な日です。イスラエルの民が前日にマナを2倍集めよと。安息日に神を見上げるためで、一部が従わずに安息日に働くもゼロでした(16:)。何故休みを拒否したのか。不従順に加え、エジプトの強制労働から奴隷根性が染みついたのではないか。貧乏性的に働かないと落ち着かず、主体的な御言葉と信仰の成長を阻害して、うまくいかないと人のせいにする、彼らの霊性の深みには偶像がありました。救われてもなお主に憩うことをせず、悪魔的な奴隷心に冒されていませんか。「生涯の全ての日において,わたしが自分の邪悪な行いを休み,わたしの内で御霊を通して主に働いていただき,こうして永遠の安息をこの生涯において始めるようになる,ということです」(ハイデルベルク問103)安息に終わりは無く、創造7日目は安息のスタート。この恵みは全ての霊性の出発点また訓練です。
7月19日
乱用しない信仰
出エジプト20:7
武安 宏樹 牧師
「第三戒で何を求めていますか。」「私たちが呪いや偽りの誓いによってのみならず、不必要な誓約によっても、神の御名を冒涜または乱用することなく、黙認や傍観によっても、そのような恐るべき罪に関与しない、ということで、要するに、私たちが畏れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いない、ということ。それは、この方が私たちによって正しく告白され、呼びかけられ、私たちの全ての言葉と行いとによって讃えられるためです。」「しかし、神の御名によって敬虔に誓うことはよいのですか?」「その通りです。権威者が国民にそれを求める場合、あるいは、神の栄光と隣人の救いのために、誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合です。」(ハイデルベルク信仰問答99.101)」

聖書に手を置き就任宣誓する米国大統領が、利権争い以外何物でもない、イラン戦争の正当化のため、支持基盤である福音派の指導者たちともども、善悪二元論に単純化した上で、神の加護を言葉やAI画で宣告しています。金と権力と大言壮語が幅を利かす歪んだ世界で、主の御名を口にするとは、どういうことなのか。主イエスはさらに厳しく「みだりに口に」することは、悪霊の業と断じます(マタ5:37)。私たちの口も聖められていないと痛感しつつ、主は私たちの祈りをどう見ておられるか。祈りの答を受け入れる心の準備と、自分を棄てる覚悟が出来ているのか。「求める前から、必要なものを知って」おられる主イエスに対して、心の底から単純な信頼があるのかが問われます。

主の祈りは御名を「みだりに口に」したがる、私たちへのチェックリストで、父の名を絶対に「みだりに口に」しない御子が、「こう祈りなさい」教えた祈り、私たちがこんなにも無駄に空しく唱えていたかと、悔い改めを促す祈りです。されどそれだけで満足せず、「権威者が国民にそれを求める場合」告白すべき、こういう時には命をかけて世に向けて、主の御名を唱えなければなりません。不利益や危険も伴いますが「天においてあなたがたの報いは大きい」(マタ5:12)よくやった、忠実な僕だ!と主に歓待されることを、目的といたしましょう。そのような必要以外にも、「神の栄光と隣人の救いのため、促進」しましょう。「私たちは御名を真理や善きことのために用いるよう命じられている」(ルター)
7月12日
ねたみの神
出エジプト20:4-6
武安 宏樹 牧師
第2戒「あなたは自分のために偶像を造って~拝んで~仕えてはならない」神は見えない霊なる方なので、何らかの形で現すのは無限の神を人間と同じ有限に引き下ろす罪です。以上の動詞3つ態が異なり「造って」は基本形で、私たちが主体ですが、「拝んで」は再帰形で私と偶像が協同して拝ませる印象、「仕えて」は使役受動形で直訳「仕えさせられて」、偶像に支配される印象です。いわゆる宗教行為以外にも、私たちは幼時の親の言葉や青年期の憧れの人や、人生の夢や金&偏差値&業績などの数字や、劣等感&競争心&許せない心や、医者の診断など心の中は偶像だらけで、キリスト以外に救い様ありませんが、「あなたの神,主であるわたしは,ねたみの神」この「ねたみ」は「熱心」「激しさ」とも訳されます。人間的なねたみは契約関係にある夫婦なら浮気相手だとか、罪に対して憎しみに基づく不満があるので、双方とも後ろめたいものであり、「愛は~人をねたみません。」(Ⅰコリ13:4)「肉のわざは~ねたみ」(ガラ5:19-21)パウロも断罪しますが、神も諸感情の中に「その炎は火の炎,すさまじい炎」(雅8:6)愛の激しさと義しさから罪をあぶり出す聖なるねたみをお持ちです。

私たちは神と一対一の関係で、偶像の存在を棚に上げ聖く歩もうとします。されど神が偶像に怒りを表す激しさは、ねたみと恵みに満ちた愛の証印です。取り去られたりうまくいかなくなる時は、そろそろわたしの御言葉で立てと、御霊に促されています。私たちは梯子を上るように実を得たいと願いますが、主イエスは最初こそ喝采を受けるも、徐々に人々が離れ弟子たちまで裏切り、最後ひとりで父と向き合い死なれました。偶像皆無で従順が完全だからです。死なば父が復活させてくださると信じたからです。偶像を持っていませんか。どこから墜ちたか思い起こし、痛みを伴って断ち切られる覚悟をしましょう。偶像に人を生かす何の力も無く、お札お守りは自分の願いを込めるものです。自分の好むように生きる人生は空しい。しかしキリスト者の人生は違います。「人のおもな目的は,神の栄光を顕わし,永遠に神を喜ぶこと」(WM小教理問1)神が私たちを造られ、神礼拝を喜ぶ民として、神と人に仕え栄光を顕すため、換言すれば偶像など頼らなくてよいように、能動的で熱い思いをお持ちです。主のねたむ愛が押印され、偶像の結集たる大バビロンに立ち向かいましょう。
7月5日
奴隷の家から
出エジプト20:2-3
武安 宏樹 牧師
主が十字架上で死の瞬間に至聖所の幕が裂かれ、本来あるべき契約の箱は、捕囚時に失われ第二神殿に存在せず、伝説と化しました(マタ27:51/黙11:19)。裏を返せば十戒を記した二枚の板は、聖霊を通してキリスト者に内住します。2節は前文「第0戒」。続く1~10の前提として先ず救われた民であると確認、神と契約を結ばれて愛と義の御手を以て、導かれ救われた民としての掟です。食糧難からエジプトに逃れた民は繁殖力が強く、王は強制労働で苦しめます。併せて男児皆殺しを発令する横暴も、死の手をくぐり神を恐れる女の信仰で、モーセは誕生します(1-2:)。王はイスラエルに国を乗っ取られることを恐れ、金と権力と人が離れたら没落するため、つなぎとめるため無謀な抵抗を行い、なおも主なる神に敵対するのは恐れゆえで、イスラエルが奴隷の立場ですが、実際は王自身が恐れの奴隷でした。奴隷の家は恐れの家で罪から来るもので、アダムの偽り、カインの開き直り、サウルの焦り、アナニア夫妻の欺きなど、悪魔に隷属する姿です。聖なる神と偽りの神どちらに支えられていますか?キリスト者は恐れて逃げ回る民でなく、信仰から喜んで十戒を行う民です。

「第1戒で主は何を求めておられますか?」「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために,あらゆる偶像礼拝・魔術・迷信的な教え・諸聖人や他の被造物への呼びかけを避けて逃れるべきこと。唯一のまことの神を正しく知り,この方にのみ信頼し,謙遜と忍耐の限りを尽して,この方にのみすべてのよきものを期待し,真心からこの方を愛し,畏れ敬うことです。」(ハイデルベルク問94)
皆さんは主とまっすぐ向かい合っていますか。自分の目と肉の恐れの声に、簡単に屈していませんか。思いの激流に呑まれては、他の神々の思う壺です。私たちは主の民をエジプトの奴隷から解放された方を見上げ、変えられます。愛と力の主を見上げないと偶像を拝む弱い者です。先ず神を見上げましょう。神以外に心を奪われ自分を見失っていた罪を悔い改め、方向転換しましょう。我が国を見渡して、神を正しくあがめ律法を喜ぶ人種は何と稀少でしょうか。神に背を向けて神の掟を唾棄し、恐れに縛られ滅びに向かう者が多いのです。皆さんは1%未満の日本のキリスト者として、奴隷の家から救われました。高価で尊い存在です。終わりの時代に全能の神を見上げてまいりましょう。