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礼拝メッセージ
1月4日
互いに熱く愛し合いなさい
Iペテロ1:22-23
武安 宏樹 牧師
① 愛のオキテ武安 宏樹 牧師
創造主なる神は人を神に似せた最高傑作とし、神と交わるための霊を注ぎ、自由意志を以て喜んで神に従うようにされて、禁令を守るか否かで逸脱する可能性も残されました。神の関係に留まるか迷い出るかで、愛はルールです。加えて神の造られた社会は、夫婦&親子&隣人の各関係が必要となるゆえに、以上3つと無縁の人は居ません。そこへ再び悪魔が登場、神人関係以外にも、夫婦→親子→対人と関係が歪み、親を恨み、兄弟を妬み、友人をひがみます。著者ペテロは主イエスから「互いに愛し合いなさい」(ヨハ13:34)と命じられて、「きよい心で~熱く」と加えたのは、彼自身の罪性の悔い改めゆえでしょう。
② 神の愛で人と愛し合う
主イエスの戒めもペテロの勧めも共通し、神の愛アガパオーが使われます。私たちは全ての人間関係の間に、キリストがご自分を顧みずいのちを捨てた愛を置かなければ偽りであり、意図的に人を貶めたり無視したりしなくても、背後の自己愛ゆえに隣人愛に制限をかけ、自分より先に人を変えたがります。神を愛することは隣人を愛すること(Ⅰヨハ4:)。人はそれぞれ目的があります。神の聖さと純粋さは語源通り、人間的な思いに一線引き神に明け渡すことで、初めて働きます。真の信仰者は聖い一線を引いて正義と礼儀を踏まえた愛を示します。されど踏み込みすぎて傷つけたり逆に無関心など難しいものです。
③ キリストの兄弟愛で愛し合う
ペテロは表向き献身しているようでも、神の愛に完全に立てなかったので、師を裏切る結果となるも、主イエスの愛は完全で破門など考えませんでした。「あなたはわたしを愛していますか」(ヨハ21:15-17脚注参照)三度の問いかけに彼は神の愛でなく兄弟愛で愛しますと返したのは、畏れ多かったのでしょう。そこへ主は三度目に「あなたはその兄弟愛でわたしを愛するのだね?」と応じ兄弟愛の深さと背後に神の愛を学ばせます。先ず神にいかに愛されているか、次に兄弟愛が大事なステップ。キリストを中心に神&自分&隣人の三角形で、自分の内面を見つめましょう。宣教75年を迎えて愛に生きる年としましょう。
12月28日
祈りの果実
ルカ19:46
武安 宏樹 牧師
年間聖句を振り返りつつ、教会的にはリフォームを煮詰める1年でしたが、御言葉に照らして答え合わせも有益かと思います。一つ目に、4名の兄姉を天に送りました。御国での再会を思いつつも親族には暫し別離の悲しみ有り、見守る教会員も支えを配慮しました。二つ目に、諸事情で離れる方も居られ、家族の励ましや教会学校の今後を協議し、祈りつつ出来るフォローを行って、三つ目に、リフォーム委員会が遅くまで議論し、行き過ぎた意見は戒め合い、少数意見にも耳を傾ける姿勢を持ち続け、忍耐と寛容の実が養われました。今後は荷物移動と仮会堂礼拝を経て竣工へ、様々な思いが交錯するでしょう。四つ目に、会計面で基礎献金が地道に増えており、理由は分かりかねますが、皆さんの霊性が地に足が着いているバロメータでしょうか。どこの教会でも、財務状況は苦労しており、当教会が献げる教会であることを感謝すべきです。「高齢者の多い教会ですが信仰の年輪が大きな事業の際に,若者ばかりの教会と比べて,安易に悪魔に揺さぶられない確固たる基盤をさらに強くします。古い御言葉に足を着け,新しい御霊で祈りに励む年としましょう」(新年礼拝)武安 宏樹 牧師
以上列挙しつつ、祈りの方向性が教会内に向けられてきたことを思います。教会の本分は外への宣教ですが、自分たちの信仰を置き去りにはしなかった、目に見えて成長した訳ではありませんが、小さな結果の数々から現状を感謝、友が与えられていることを大事にしつつ、「時がある」(伝3:)と覚えましょう。「祈り求めるものは何でも,すでに得たと信じなさい」(マコ11:23)キリスト者の特権は主の御名で祈ることですが、神は時空を超えたところに摂理を働かせ、自分が祈ったことで他の人が恵みを受けたり、次世代にリバイバルが起こる。最後にいわゆる「常喜祈感謝」(Ⅰテサ5:16-18)から、祈りは喜びと感謝の間に。原文では各節がピリオドでなくカンマ程度で、要するに3つは密な関係です。私たちは方策尽きて祈りに追い込まれることが、多いのではないでしょうか。それでも良いと思いますが祈り単体以前に、神を喜び救いを喜び臨在を喜び、試練を喜び祈りが天の恵みと喜んで祈ったらどうか。その実が願い通りでも、不本意でも感謝が出てくること、ホットラインが開通していることを感謝し、さらに教会に宛てた手紙ゆえ、互いに喜び合い祈り合い感謝し合うことです。
12月21日
死からいのちに
ヨハネ5:24
武安 宏樹 牧師
「死んだら何処に行くのか?」現世で善行を積んで極楽へ、より良い転生へ。仏教はじめ諸宗教は努力で救われる教えですが、聖書はそうではありません。本節ではキリストのことばを、ただ「聞いて,信じる」ことだけ求められます。天から差し伸ばされた手を握り返せば救われます、と福音を形容しています。そこには善行も転生も必要なく、手を出すか断るか、二つに一つの決断です。武安 宏樹 牧師
ルカ15章の放蕩息子のたとえ話では、父親から生前贈与を受けた弟息子が、相続した全財産を食い潰し、飢え死にしそうでやむを得ず実家に帰ります。格好つける場合でないですが、恥も外聞も捨て父の怒りと兄の嘲笑を覚悟し、にもかかわらず父は愚息の帰宅はるか前から、待ちわび近づき抱き寄せます。これが父なる神の愛です。ところが真面目に尽くすも心の狭い兄が拗ねます。こんなに稼いでいるのに穀潰しの弟が歓迎されるのは、酷くはないですかと。そこへ父が宥めた言葉「この息子は,死んでいたのに生き返り,いなくなっていたのに見つかったのだから」に死生観と愛情と生き方が意図されています。弟は遊んでいても生きていました。しかし父は彼が「死んでいた」と断じます。 何故でしょうか。それは父から離れて生きること自体が死人同然だからです。
最初の人アダムは自分を造られた神から離れて、死の道を選び取りました。結果はカインがアベルを殺し子孫は荒れ放題で、ノア家以外洪水で滅びます。それなら兄息子のように父にべったり依存して、喜ぶことだけする優等生が、「生きている」人なのか。そうではなく、兄息子も生きていながら死んでいる。物理的に父の傍に居ても心が自己中心で離れているからです。近くに居れば、コミュニケーションは増えて安心でしょうが、弟息子は「いなくなっていた」ここに失われた家族を探し求める父の慈愛があります。既に信じている方は、「いなくなっていた」けれども家に帰ってきた人で、未だ出会っていない方は、捜し回る父をよそに背を向けて帰らない人です。もっとも帰り方はいろいろ。いずれにせよ帰るか、帰らないか。弟の如く物理的か、兄の如く精神的にか。魂の故郷はキリストのうちに。信じることは特別でなく真の私に戻ること。帰らないと永遠の滅びが待っています。差し出された手を握り返しましょう。
12月14日
おことばどおりに
ルカ1:26-38
武安 宏樹 牧師
本章でエリサベツは妻でも不妊の老女、マリアは未だ結婚していない処女、そんな二人が各々御使いに妊娠を告げられて、同時並行の展開となっており、エリヤ再来と目される旧約最後の預言者ヨハネと、旧約の三大契約を更新し文字通り新しい契約を結ぶイエス。旧約と新約の架け橋が聖霊主導でなされ、御使いの出現にザカリヤは不信からしるしを求めて、口封じのさばきに遭い、けれどもマリアは不信ではなく、人間的常識を超えた不思議を問うています。精子と卵子の結合で初めて一つの生命が生まれますが、この仕組みの創設者、管理者は神ご自身なので、男女の関係無しでも神の御心なら特例は可能です。信じようとしなかったザカリヤに対し、信じても理解が及ばなかったマリア「どうしたら?」御使いの答は「神にとって不可能なことは一つもありません」方法論の疑問に対して答になっておらず、人間的に考えてかなり乱暴ですが、「どうぞ,あなたのおことばどおり,この身になりますように」複雑な胸中も、神の全能の働きと受け入れアーメン!と言う、素直さと大胆さがありました。名もなく卑しい女の信仰が、アロンの系譜をひく祭司の家系に勝ったのです。武安 宏樹 牧師
「おことば」は「神にとって不可能なことは何もありません。」(37節)の直訳「あらゆる言葉は神にとって不可能ではない」(カルヴァン)同じ語が使われます。マリアは「おことば」に応えることで、「私は主のはしためです」へりくだりと従順を告白。頭で理解とか腑に落ちるではなく、発する神ご自身への献身で、これが神の最も願うことです。耳だけ頭だけ口だけ心だけの人は多くいます。「この身に~」体の一部でなく全体に「おことば」が浸透することを願います。言葉が交わされないと夫婦の心が離れ、外交の不在は国家に戦争を招きます。宣告後に御使いが去ったのは、マリアに「おことば」が浸透していたからです。私たちは人の言葉に縛られて生きています。親、夫や妻、先生や上司や牧師、各々拘束力が強ければ抜け出すのは容易でなく、同様に自分が他人を縛って、自分の期待が自分を縛ります。ザカリアの方が歳と経験ゆえ縛られています。マリアは預言者でも祭司でもなく、「私は主のはしためです」立場を明確にし、この告白は続く「どうぞ,あなたのおことばどおり」に先立つ条件となります。二つの告白を順番に、よく味わって言葉に出して心に浸み渡らせましょう