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礼拝メッセージ
9月13日
むさぼってはならない
出エジプト20:17
武安 宏樹 牧師
第10戒は、第6~9が具体的行為に現れた罪に関する戒めであるのに対し、むさぼりの意志=心の中の罪であるのが異なります。「あらゆる罪悪の根源」とルターが言うように、他の全ての罪の底に流れる、最も根本的な罪であり、ダビデ(Ⅱサム11:)とアハブ(Ⅰ列21:)に見られ、偶像礼拝と同じです(コロ3:5)。欲望が導火線となって、偽証・盗み・姦淫・殺人が起る。不満足・羨望・嫉妬、この欲望の波をだれが制御できるのか。最後がむさぼりの禁止ということで、十戒が結局内面的なのだと分かります。自己中心=罪とは、厳しい要求です。この避けがたい罪に向き合う時に、私たちは第10戒→第1戒に戻されます。つまり自分が創造主と結ばれている幸いを見上げて、信頼することでしか、解決の道がないことを十戒は示しています。「律法主義」はナンセンスです。
私たちは律法に「死んだ」者(ロマ7:4-6)。原文の過去時制&受動態が示す通り、「キリストにあって」死んだ=殺された者で、私たちが御霊の満たしに歩む時、むさぼりから、殺し&盗み&姦淫&偽証から、偶像礼拝から解放されます。キリスト無しには神ののろいの下むさぼるのみ、何と空しい人生でしょうか。武安 宏樹 牧師
欲望の結末は世界も私もあなたもオシマイと、世の人々も気づいています。残念なことにキリスト教国とユダヤ教国の代表が、強欲と戦争に明け暮れて、一時代前はモラルで歯止めがかかったことが、制御不能で底が抜けています。キリスト者はどのように隣人愛に生きるか。欲望のベクトルを禁欲ではなく、違う方向に向けなければなりません。パウロは霊的な事柄と知っていました。バベルの塔は罪人の知恵と財を結集し、人が神になるために建設されました。神は降りて来られ悪しき計画を粉砕しました。対する聖霊は一つ所に集まる弟子たちに注がれて、全世界に福音を宣べ伝えて教会が全地に建てられます。私たちの使命は世と罪と悪魔との戦い。悪魔は「心」理戦を挑んできますが、私たちは「真」理戦を行います。詩篇作者はむさぼるように御言葉を慕い求め、雅歌作者はむさぼるように神の愛を求めます。主は私たちを禁欲の奴隷でも、権力者に隷属でもなく、いくら汲んでも尽きない泉から飲めと仰せられます。聖霊は知性をフル回転してキリストに根差した祈りから、全ては始まります。私たちは何が出来るかでなく、どう在るか。聖霊の恵みをむさぼりましょう。
9月6日
偽証してはならない
出エジプト20:16
武安 宏樹 牧師
「嘘つきは泥棒の始まり」あるように、私たちの諸々の罪の入口が偽りです。真実な神は偽りを許さないため、神のものとなったキリスト者が偽るとき、内なる霊が悲しまれます。周囲の評価を恐れるのも日本人特有の弱さです。正しくなくともみながよければ、物事が円滑に運んでしまう社会だからです。第9戒は偽証で、隣人の名誉を守ることを命じ、前半の第3戒と対応します。神にいつも偽って誓う人が、外圧に屈せず隣人の名誉を守るなど不可能です。反対に神は私たちと偽りの契約を結んだり、日頃の行いで契約解除しません。神の御性質が真実である中に、救いの選びの確かさと堅忍が含まれています。ペテロは主を否認するという失態を犯しましたが、彼はペンテコステの力を受けて変えられた。聖霊の火を受けて、偽りを語る舌がきよめられたのです。武安 宏樹 牧師
「わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに、手を貸さないこと。かえって、あらゆる嘘やごまかしを、悪魔の業そのものとして、神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、裁判やその他のあらゆる取引においては真理を愛し、正直に語りまた告白すること。さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とを、わたしの力の限り守り促進する、ということです。」(ハイデルベルク信仰問答112)
私たちが個人的&社会的に偽りに手を染めず、真実に生きることは難しく、「偽証せず、言葉を曲げず、中傷せず、手を貸さず、嘘やごまかしを遠ざけ」より「真理を愛し、正直に告白、隣人の栄誉と威信を促進」積極面の方が訓練容易で神との関係が真実なら人に対しても真実になります。神が最高の計画により、創造された私という存在を喜び受容しているか、セルフイメージの健全さに、因ります。嘘を多用する人の特徴にコンプレックスや歪んだ敵意があります。神から無条件の愛を受けて謙遜に生きる者は、悪魔的な心理には陥りません。自己愛に根差す者が周囲の承認を得るため、背伸びして自分を偽装するのは、第10戒の貪りと密接な霊性です。キリスト者として真実に生きていますか。「わたしが道であり、真理であり、いのち」(ヨハ14:6)イエスの道を受け入れた、わが国1%の私たちのみ、偽りの霊に臆すること無くノーと言える人種です。
8月30日
盗んではならない
出エジプト20:15
武安 宏樹 牧師
「盗む」とは所有権者から奪う意味ですが、「芸を盗む」など許可されれば、いくらでも盗めるのであって、要は所有者が所有権をどう扱うか次第です。けれども什一献金規定の箇所を見ると「神のものを盗む」とあります(マラ3:8)。神が各人に各々の所有物の管理を委ねているというのが、聖書の思想です。すると所有物の概念が根本から変わり、所有権が絶対から相対になります。神に与えられた恵みをお返しする献金が代表例で、喜びと誠実が問われます。全世界がこのようになれば、領土問題はじめ世の多くの紛争が解決します。秩序維持にも有益ですが、まず隣人を愛することがその目的です(マタ22:39)。世の中は持てる者が持たざる者から奪い、自分の権利を主張して争います。国際関係・労使関係・家族関係・・・人を大事にしない社会構造は目先の利益とパイの奪い合いと化し、長期的には社会全体が打算的になり弱っていきます。私たちはひたすら神の所有権を念頭に、隣人愛を祈って考えることに努める。隣人と誠実に向き合う彼方には、隣人を創造された主と向き合うからです。私たちは金や物のみならず、知恵・労力・時間・祈りなどを捧げたでしょうか。武安 宏樹 牧師
「わたしが、自分にでき、またはしてもよい範囲内で、わたしの隣人の利益を促進し、わたしが人にしてもらいたいと思うことをその人に対しても行い、わたしが誠実に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けることです。」(ハイデルベルク信仰問答111)
それは私たちの存在が神の所有権にあること。だから多くを求められます。神が富んでおられるので、いやいやではなく喜んで与え、そして与えられる。ゆえに第8戒は後半部の人に対する戒めですが、神への戒めと密な関係です。私たちは人から認められたくて争います。胎内のエサウ&ヤコブが好例です。意見が合わなければ論争します。こちらは神の、あちらはサタンの陣営だと、主の耳に入れば激怒されるような言葉も発し、承認欲求は恐ろしいものです。いや排除する気など毛頭無くても、無意識のうちに他の人の領分を侵害する。自分が神から与えられた領分はどこまでか意識すると、互いに成長できます。意見の合わない人と向き合い、悔い改めつつ祝福を祈る努力が器を拡げます。「人として」(ピリ2:6-9)盗みと無縁で、与えることに徹したのは主イエスのみ。キリストから発する恵みを豊かに受け、隣人に与え獲得しましょう(Ⅰコリ9:)。
8月23日
愛される理由
イザヤ43:1-7
原 敏夫 師
今日の中心聖書の箇所は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)。この言葉に確信をもつことが出来るでしょうか。神様に選ばれたイスラエルの民は神様に対して頑なになり、従おうとしませんでした。神様が選んでくださっているのに反発している私たちを高価で尊いと言われています。何故ここまで神様は効果で尊いと言われるのでしょう。原 敏夫 師
第一に神様が人間を創造したからです。今日の箇所の1節と7節には創造ということばがあります。私たち人間は神様の情報によって創られました。情報とは愛そのものだと言えます。私たちの体の細部はそれぞれの専門家でなければこれほど完璧に創ることは不可能です。それが出来るのは神様以外にはいません。だからこそ私たちは神様にとって高価で尊い存在なのです。
高価で尊い理由の2番目にイエス様が私のために死なれるほどに、私たちは高価で尊いから。神様に従わないから裁かれるのではと思っていませんか?イエス様は十字架によって身代わりに死んでくださったゆえに、私たちに罰を与える理由がなくなりました。物の価値は払う人の価値で決まります。イエス様の命以上に私たちは価値があると認められました。
そして最後に神様は私の名を呼び、いつも共にいてくださいます。私たちは胎の中にいる時から人生のシナリオは出来ています。ひとりひとりに思いが込められています。だから私たちを名前で呼んでくださいます。1節の最後に「あなたは私のもの」と書かれています。神様は私たちを独占しています。誰にも渡しません。全責任を負い、必ずあなたを幸せにしますという約束が含まれています。2節には「あなたと共にいる」とあります。クリスチャンになっても災いは襲ってきます。しかし、その中にあっても神様は共にいて下さると言っています。これこそが私たちのことを恋い慕っていることではないでしょうか。そして私たちが忘れてはいけないのは聖霊の働きです。(ゼパニヤ3・17)私たち教会はイエスキリストの花嫁です。イエスキリストと婚約関係にあります。その印が聖霊です。私たちは天国に行った時にイエスキリストと結婚します。私たちは神様によって選ばれている高価で尊い存在なのです。