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礼拝メッセージ

3月22日

試練として耐え忍びなさい
へブル12:4-11
武安 宏樹 牧師
1~3節で語られた三点が、キリスト者の行動の動機「訓練」に収斂します。この語は父から子への教育の意です。ユダヤ社会で教育は父の役目でしたが、子は愛のムチとして受け止め、好き嫌いを超えて親という切れない関係です。「肉の父はわずかの間,自分が良いと思うことにしたがって」教育しましたが、「霊の父」教育の内容と動機が、信者が全面的に信頼に値することを説きます。この「訓練」「懲らしめ」をいかに理解できるかが、私たちの成長に直結します。最高の模範は主の十字架で、父なる神の義しさ&聖さを満たすためさばかれ、それだけでなく愛をもった「懲らしめ」でした。皆さんは訓練を受けましたか。信者家庭といえども親の教育が聖書的で、主の愛と義に基づけば良いですが、表と裏の顔が違ったり、人間的動機が前面に出ていると反抗したくなります。私は未信家庭で聖書も知らず世の流れに身を任せ、親や先生に反抗しました。教会でも人間的不和を見て違和感を感じ、人を信頼することが分からずに、良くも悪くも「霊の父」しか信用できず、祈りと御言葉に頼るばかりでしたが、若気の至りで独善に陥りつつも、洞察が深められたことは今に生きています。

そういうわけで「訓練」の主体は「霊の父」、目的は「私たちの益のために」、印象は「かえって悲しく思われ」、結果は「義という平安の実を結ばせます」。私たちは多くの訓練を受け続けなければならない。決して快いものではなく、何故こんな目に?と思いますが、ここで受けるか受けないかの選択を迫られ、嫌だから逃げ回ると霊性が耕されず固くなり、されど御手が介入されるので、次の訓練の際は何倍も強烈な「懲らしめ」となり、非効率な不信仰生活となる。罪を犯さないように、腹を立てないように、デボーションを休まないように、「~しないように」消極的目標でなく、自分から主体的に訓練を求めましょう。一つ目は前回学んだように、耐え忍ぶことで簡単に行動に移さない訓練です。二つ目は「私たちの益のため」主が訓練されることを覚え、信頼することです。ということは嫌に思えることが、実際はマイナスでなくプラスになるのです。これは神の愛と聖に与らせるため、人間的な考えの明け渡しに因ることです。三つ目は「私たち」複数であるように、自分だけで完結の益でなく隣人にまで、キリストの肢体として共同体の益となり、訓練の終着駅は主の十字架です。
3月15日
疲れ果ててしまわないように
へブル12:3
武安 宏樹 牧師
何かあると元気を失くして疲れ果ててしまう、打たれ弱い霊性が見えます。余計な重荷を抱えていないか、主イエス以外に目を奪われていないか二点を、振り返るだけでも力が与えられますが、読者はさらに厳しい試練に置かれて、そこで「忍耐」が必要です。人にはそれぞれ家庭&社会でストレスがあります。「心がその人自身の辛さを知っている。」(箴14:10)所詮他人には分からない、自分でもよく分からない苦しみがあるもの。なぜ苦しみに遭うのでしょうか。

一つ目に最初の人が罪を犯したこと「苦しんで子を産む~食を得る」(創3:)堕落後早々に兄弟殺しが起こるように、地上では必然的に苦しみがあります。世界は際限なく国際法も憲法も無視して戦争をし、結局は自分が弱っていく。人間関係&国際関係などヨコの関係の不和と、人が創造主に背を向けて生き、人生の意味を見出せない絶望と、偶像に拠り頼む空しさはタテの関係の不在。人は生まれながらに苦しみを抱えている存在、その原因が罪ということです。解決策はAIが丁寧に教えますが、人は神の作品ゆえ罪人と認めないかぎり、罪に勝利することも人生に意味を見出すことも出来ず、人の本質は反抗です。地上の生涯は神への無駄な抵抗が砕かれきよめられると、主に強くされます。キリストの福音は「死んで生きる」。自分に死ぬと創造本来の自分が見えます。

二つ目にキリストも苦しまれたこと、これは最初の人の堕罪と無関係です。全能の御方ゆえ、私たちのように社会的&霊的にも苦しむ必要がありません。創造後に放置してサタンに丸投げしても文句言えませんが、そうはされずに、頑固で言うことを聞かない民のために、最終手段として愛息子を送りました。滅びの海に沈まんとする者に、浮き輪を投げて手を差し伸べるのは、愛です。「ご大切」(ギュツラフ訳)に想っているから神は苦しまれ、その結晶が十字架です。私たちが救われていない人のため祈り、離れている兄姉に声をかけるのは、主と同じ思いに満たす聖霊の働きです。罪や肉の思いからではない苦しみ、主と同じ道を選び取ったゆえ苦しむ光栄が、恵みによって与えられています。主が共に苦しんでいると分かると、言葉と行いに耐え忍ぶ心が出てきます。苦しみは神の視点ではほんの一瞬。十字架の彼方には天の栄光が見えます。
3月8日
イエスから目を離さないで
へブル12:2
武安 宏樹 牧師
1~2節は切れ目無く原文がつながり、闇雲に罪も重荷もかなぐり捨てて、一心に走ればよいのでなく、目が何処を見て目標を定めているかが大事です。漠然&漫然と食うため生きる人よりも、夢を持っている人は活気があります。「故に,夢無き者に成功無し」(吉田松陰)幕末の名言ですが列強に追いつけと、開国から半世紀足らずで戦争に連勝で勘違いしたか、最後は原爆投下で終焉。いったい人間の夢とは何なのか、国家に自分の野望を重ねる為政者もいます。しかし自分の夢や野望に基づく道は、必ずどこかで切れて行き止まりとなり、にもかかわらず強行突破を図る者に破滅が待っています。何故でしょうか?全能の神が御手を動かされて、己を神とする人間の暴走を許さないからです。ペテロは主の昇天後最初の説教で、ヨエルの預言を引用します(使2:14-40)。青年の「幻」&老人の「夢」は、あなたがたが愚かにも殺したイエスのことだと。「しかし神は,イエスを死の苦しみから解き放って,よみがえらせました」今や私たちは自己実現の罪の道から解放され、二度目の人生を生かされています。「目を離さないで」単に凝視でなく、信頼に基づき他を排除する強い意味です。

主イエスを「ガン見」せよ、そうすれば他はどうでもよいということです。なぜなら「信仰の創始者であり完成者である」から。主イエスは創造以前から、父なる神を心から信頼し聖い交わりを持たれ、地上の苦難でも不変でした。「指導者」(脚注)とあるように、今も私たちの半歩前を背中を見せて共に走り、ゴール時には向き直って御国に迎え入れてくださる。ゆえに「完成者」です。主イエスの道を走れば行き止まりにならず転落せず、完走できます(ヨハ14:6)。皆さんはそのように走っていますか。隣の走者に足をかけられたと恨んだり、ケガをして断念していませんか。弱い者のために主は力と目的といやしとを、与えます。主イエスは父編も信仰によって、苦難の道自体を喜んでいました。人は自分の人生を神が与えし道と喜ぶことで、次々と新しい道が開かれます。苦しみを乗り越えるたび人は成長しますが、自分の力では我が強くなります。人生に責任を取ることができ、最後まで付き合ってくださるのは主だけです。目標が何かで人生は変わります。キリスト者は主を超えることは出来ません。けれども主の居られる所まで確実に到達する。ここに夢と希望があるのです。
3月1日
捨てて、走り続けよう
へブル12:1
武安 宏樹 牧師
本章始めに「こういうわけで」は、前章の信仰者列伝全てを受けての意です。人生はマラソンとよく言われます。どれだけ長い道のりも一歩一歩進むなら、ゴールにつながる意で、努力とか諦めない心とか継続とか、以上積み重ねが、人生に似ているとの格言で用いられます。斜に捉える見方も多数ありますが、結論から言うと「信仰人生はマラソン」と断言して差し支えないと思います。

一つ目に、「多くの証人たちが,雲のように私たちを取り巻いている」こと。通常マラソンは孤独な競技で、沿道に観客や後方に監督&コーチの伴走車が、ついていても結局は自分が走って、その結果が自分に帰ってくるものです。「多くの証人たち」は観客兼伴走車で、この世ではなく天国から「雲のように私たちを取り巻いて」、キリスト者に内在する御霊を通して彼らは息づいて、流された血潮の数々がDNAとして、私たちの体内に循環し走り続けます。傍から見れば孤独でも、当人は孤独を感じず意気揚々「団体競技」なのです。

二つ目に、「一切の重荷とまとわりつく罪を捨てる」こと。前章39節から、「証人たち」「私たち」が対照され、彼らと同様に私たちも余計なものを捨てて、悔い改めて走ることです。「塩狩峠」主人公信夫は神と隣人を愛する者として、暴走する客車を止めんと自ら轢死し、その結果が友人の救いに繋がりました。世の中で終活の一環として断捨離を行いますが、キリスト者は信じた時から、常に断捨離を迫られ、清貧以前に主を愛するために足枷となるものを捨てて、出来るだけ身軽な走者となり、肉の自分の執着から解放されるのが聖化です。

三つ目に、「自分の前に置かれている競走を,忍耐をもって走り続けよう」。マラソンは同じコースを競い合い、賞は一人です。同じ出世コースと見れば、主の弟子たちのように醜悪さが出てきます。主だけを恐れ、与えられた道筋を辿ることだけに集中するには高い信仰を要します。主からいただいた恵みを、自分の存在意義と賜物として受け止め、競争ではなく他の人に仕えるために、磨きをかけることだからです。「忍耐」には積極的にゴールに突き進む意味が。私たちは道筋を求め、天のゴールまで走り続ける中でハッキリ見えてきます。