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礼拝メッセージ

1月25日

恐れることなく
へブル11:23-27
武安 宏樹 牧師
モーセは不思議な誕生をしました。男の赤子みな溺死との王の命に拘らず、「かわいいのを見」母が子に特別な計画を感じたか、葦の茂みにかくまいます。監視していた姉は見つけた王女に、ヘブル人の乳母と称して実母をあてがい、まさに「葦の海=紅海」「籠=箱舟」神の計画と彼女らの信仰・知恵の結果です。信仰深い姉の機転により、母は十分な賃金と王家の庇護の下でモーセを育て、後にエジプト王家で当時の世界で最高の教育を受け、指導者に資することに。人の目に偶然と見えることも、神に偶然はなく歴史的な神の御手に在ります。王には皮肉な結果で、ヘブル人の弱体化どころか娘とイスラエルの解放者のモーセを引き合わせて育てることが、宮中で公然と行われていたのでした。けれども知恵がつくほど、自分が何者かアイデンティティを求める思いから、外の世界へ出て行く機会を伺い、同胞が打たれている苦役を目撃したことで、義憤から加害者を殺害します。彼の期待に反して同胞からの支援も得られず、王からは追われる身となり、彼は自分の行動の間違いに気づいて王を恐れて、親族を頼りミデヤンに退きます。神からの確信より感情が先走った結果です。

打って変わって1500年後の本書は、彼の落ち度を「キリストのゆえ」と肯定。一見矛盾に見えますが、もし殺人を犯さなければ名誉も安全も守られたのが、宮中での罪深い生活に染まるよりも、リスクを省みず同胞を守る方を選んだ。人間なら恐れない人はいません。モーセだけでなく赤子時代の両親も姉もで、それも王の命令や法の倫理に違反する、犯罪を犯すのだからなおさらですが、ルールを無視してよいなどと、聖書が語っているのではありません(ロマ13:1)。世では可でも不品行や偶像礼拝を強制され、断るなら不利益を被る場合でも、キリスト者は世の権威の上に神の権威を恐れて、判断しなければなりません。モーセから学ばされることは、御心に従おうとする時に恐れつつも恐れ無く、一歩踏み出すことができることです。まことの神を恐れる者は大前提として、常に恐れを持っています。神を信じているので、何も恐れたことが無いなど、豪語する人は罪への神の怒りや、不従順への審きの厳しさを知らない人です。神より人を恐れると大口を叩いたり言行不一致で、要するに霊性の問題です。主は間もなく地上に再臨されます。「主は私の助け手。私は恐れない。」(13:6)
1月18日
死の向こうに
へブル11:17-22
武安 宏樹 牧師
「イサクを死者の中から~ヤコブは死ぬときに~ヨセフは臨終のときに~」本日のキーワードは「死」。彼らは死で終わらない永遠を確信していました。「はるか遠く」(13節)は地理的だけでなく、空間&時間を超えた遠さの意です。私たちの目はどこを見ているでしょう。現代社会は自分と周りのことばかり、近視眼的にどうすれば自分たちの益になるか次第で、行動する人ばかりです。モーセの目は約束の地を一望し、入れずとも落胆しなかったのは次の世代に、希望を置いていました。アブラハムのイサク奉献は旧約屈指の有名な物語で、子孫祝福の御言葉がどのように実現するのか。妻サラは生理が止まっており、死せる胎からの誕生から、神のことばは死から生を可能にすると分かります。普通の信仰者ならば苦節100歳イサク誕生で、生涯のゴールと思うでしょう。人間の弱さは自分の努力で無く神の恵みであっても、与えられると自分のと、握りしめることで、以降感謝はしても神と人に還元を惜しむようになります。アブラハムがイサクを殺そうとしたのは、子が主からの恵みである以上は、握りしめず徹頭徹尾主にお返しする中で、死から生への奇跡を見たのです。

人間的にはイサクを通して祝福の約束が反故に、神は詐欺師となりますが、アブラハムは子の中に、来るべきキリストの死から復活を読み取ったのです。闇雲に献げるのではないですが、私たちも最も大事な「独り子」を献げないと、死から生のダイナミズムが解りません。イサクがエサウでなくヤコブ祝福も、常識を超えた神の主権的恵みで、2000年後に末裔の主イエスとヘロデ大王の、魔の手をくぐり抜ける祝福のしぶとさを見ます。ヨセフは立身出世の地でも、彼は寄留者に過ぎず、神の約束の通過点に過ぎないことを解っていました。私たちも「骨を埋める覚悟で」証ししますが、地上は永遠の住まいではない。死の向こう側の世界を現在進行形で生きる民です。「彼らは自分たちの死だけを見つめてはいませんでした。死に縛られた人生には自由がありません。それから解放される時、人はどんなことでもできるようになります。」(尾山)「彼らは神の約束が実現すると信じて疑わなかった。彼らは絶望せず希望を持って死んだ。その信仰が死に打ち勝った。彼らは死んでも神の約束はなお生きていたからである。ここに永久に残る偉大さがある。」(W・バークレー)
1月11日
我が主の洗礼
マタイ13:13-17
河崎ダニエル宣教師
① 我が主の洗礼
イエス様はヨハネから洗礼を受けることで「すべての義を実現する」働きを始められました(マタ3:15)。この洗礼はイエス様が公の働きを始めるにあたり、「大祭司」としての働きの始まりでもありました。旧約における祭司の清めが、その理解の鍵となります。モーセがイスラエルの国を定めようとしていたとき、神はアロンとその子らを水で洗い清めるよう命じられました(レビ8:6)。彼らは、イスラエルの民を神への礼拝へと導く祭司として聖別される必要があったのです。さらに神は、イスラエルという国全体をも、世界のための「祭司の王国」として召されました(出19:6)。イスラエルは、神様の義が現れる国となることが求められていました。しかし「すべての義が実現される」のは、イエスの祭司としての働きを通してのみでした。主イエスこそが、神様の義で全地を満たす新しい「祭司の王国」を創ることができたのです。洗礼により、主イエスは新しい王国のための、新しい大祭司の働きを始められたのです。

② 私たちの洗礼
私たちも洗礼を受けるとき、キリストによって定められた「祭司の王国」に加えられ、大祭司である主イエスの働きのもとで仕える「王である祭司」として生きる召しが与えられたのです(Ⅰペテ2:9)。この召しは、義の中を歩み、義を広めることにあります。人々は、私たちの生き方や主イエスについての証を通して、神を知り、礼拝へと導かれていきます。この召しは大きすぎると感じるかもしれません。しかし、イエスの洗礼において神が御霊を注がれたように(マタ3:16-17)、私たちの洗礼においても神は私たちを喜び、選び、御霊によって油注いでくださいました。そして、神がイエスと共におられたように(使10:37-38)、私たちとも共にいてくださるという約束が与えられています。この神の臨在こそが私たちを「王である祭司」として生かす力であり、私たちにはその道を導く大祭司イエス・キリストがおられます。このことを心に留め、「王である祭司」として、他の人々が神を知り、神を礼拝するよう助ける召しを担い、共に歩んでいきましょう。
1月4日
互いに熱く愛し合いなさい
Iペテロ1:22-23
武安 宏樹 牧師
① 愛のオキテ
創造主なる神は人を神に似せた最高傑作とし、神と交わるための霊を注ぎ、自由意志を以て喜んで神に従うようにされて、禁令を守るか否かで逸脱する可能性も残されました。神の関係に留まるか迷い出るかで、愛はルールです。加えて神の造られた社会は、夫婦&親子&隣人の各関係が必要となるゆえに、以上3つと無縁の人は居ません。そこへ再び悪魔が登場、神人関係以外にも、夫婦→親子→対人と関係が歪み、親を恨み、兄弟を妬み、友人をひがみます。著者ペテロは主イエスから「互いに愛し合いなさい」(ヨハ13:34)と命じられて、「きよい心で~熱く」と加えたのは、彼自身の罪性の悔い改めゆえでしょう。

② 神の愛で人と愛し合う
主イエスの戒めもペテロの勧めも共通し、神の愛アガパオーが使われます。私たちは全ての人間関係の間に、キリストがご自分を顧みずいのちを捨てた愛を置かなければ偽りであり、意図的に人を貶めたり無視したりしなくても、背後の自己愛ゆえに隣人愛に制限をかけ、自分より先に人を変えたがります。神を愛することは隣人を愛すること(Ⅰヨハ4:)。人はそれぞれ目的があります。神の聖さと純粋さは語源通り、人間的な思いに一線引き神に明け渡すことで、初めて働きます。真の信仰者は聖い一線を引いて正義と礼儀を踏まえた愛を示します。されど踏み込みすぎて傷つけたり逆に無関心など難しいものです。

③ キリストの兄弟愛で愛し合う
ペテロは表向き献身しているようでも、神の愛に完全に立てなかったので、師を裏切る結果となるも、主イエスの愛は完全で破門など考えませんでした。「あなたはわたしを愛していますか」(ヨハ21:15-17脚注参照)三度の問いかけに彼は神の愛でなく兄弟愛で愛しますと返したのは、畏れ多かったのでしょう。そこへ主は三度目に「あなたはその兄弟愛でわたしを愛するのだね?」と応じ兄弟愛の深さと背後に神の愛を学ばせます。先ず神にいかに愛されているか、次に兄弟愛が大事なステップ。キリストを中心に神&自分&隣人の三角形で、自分の内面を見つめましょう。宣教75年を迎えて愛に生きる年としましょう。