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礼拝メッセージ

11月30日

大きな光を見る
イザヤ9:1-7
武安 宏樹 牧師
キリスト降誕から約750年前、預言者イザヤは同胞である北イスラエルと、さらにその北にあるシリヤ連合軍の攻勢におののく、南ユダに語りました。王も民もお先真っ暗で、人間的な知恵から南のエジプトに助けを模索するも、そのような小手先の手法は捨て、神に特別に愛された民であると思い起こし、主に信頼せよと。奇しくも王は不信仰なアハズから敬虔なヒゼキヤへ交替し、偶像礼拝と不品行を悔い改め祈ると、アッシリヤ軍は殲滅します(Ⅱ列19:)。

「しかし,苦しみのあったところに闇がなくなる。」(1節)前章までの暗闇が裂かれるように光が語られます。聖書の預言は近い将来と遠い将来の二重の山並みで語られます。ヒゼキヤやヨシヤら善王の治世には俄かに好転するも、結果的に捕囚から亡国の民に。しかし彼方に光しかない未来を断言します。闇が自動的に雲散霧消し太陽が射すのではなく、神に背を向けた背信の罪は、さばかれなければなりません。私たちは神の愛を屈託なく語りますけれども、主が私たちの罪と闇全ての代償で死なれた、神の義の厳しさを忘れています。

ダビデは信仰者でありながら、一度や二度の大罪で家族全体をさばかれた、神の恐るべき聖さです。キリスト者は十字架により赦しの恵みだけでよいと、そう考える人は、罪の自覚と掘り下げが不十分なので悔い改めが薄まります。聖霊は個別の罪以上に、御言葉に心を開かない傲慢や傷に関わろうとします。「明け私」が出来ない信者は、未信者以上に悲惨な闇の人生を歩き回りますが、両者ともに耳を傾けるべきは2節のメッセージで、自分の闇を認めることで、光が射します。全てのさばきを受けられた主は優しい光で闇を照らされます。

不潔で人の住む処でない飼い葉桶から、ヘロデの死の手から守られ静かに、「私たちのために」主はお生まれに。「不思議な助言者(Wonderful Councelor)」静かに耳を傾けつつ私たちの横に座る優しさと、「驚くべき指導者」(新共同)「霊妙なる議士」(口語)政治的には代議士、軍事的には参謀とも受け取れます。愛と義と聖と慰めと励ましと行くべき道の光が、闇を覆うように広がります。主の似姿に変えられて光に征服される喜びを、私たちは弱さから体験します。
11月23日
地上では旅人
へブル11:13-16
私たちの「故郷」について考えます。皆さんの故郷(ふるさと)は何処に在るでしょうか、どんな景色でしょうか?文部省唱歌&Home Sweet Home「埴生の宿」(讃Ⅱ147)&「サライ」(加山雄三・谷村新司)&「ふるさと」(嵐)etc.叙情的な歌は数多く、時代を問わず人の心には、望郷の念が刻み込まれまれていることを思います。元気なうち祖国の土を踏みたい、親しい人に会いたい思いは誰にもあります。けれども必ずしも良い思いだけでなく、複雑な家庭環境や戦争の痛みを抱え、思い出すだけで苦しむ人もいます。私たちはアブラハムの如く信仰によって、幼時を過した故郷の光景から一歩ずつ踏み出して、心も体も大人になります。

「そのように言っている人たち」は地上の故郷に後ろ髪を引かれることなく地上で安住の地や結果を見出した訳でもないのに、「天の故郷」へ歩む人々で、「信仰の人として死にました」生前は際立った業績を見ることは適わずとも、後世に莫大な富を遺し、「苦難⇒忍耐⇒練達⇒希望」(ロマ5:3-4)原則に立って、自分に対してではなく、将来に成就すべき神の祝福の希望に立っています。ここに世人が願う故郷との違いがあります。アブラハムは過去へ戻ることもできましたが、神の奇蹟&御声を通して臨在を味わい信仰の手応えを感じて、御国への歩みをやめませんでした。「旅人/よそ者(共同訳)/alien(英NIV)」で「寄留者/滞在者(共同訳)/stranger(英NIV)」であることを喜んでいますか?地上に故郷が無いのは寂しいでしょうが、世に執着せず楽になりませんか?

「故郷(パトリス)」の派生語には、祖先&家族(パトリア)、父(パテイル)があります。主イエスの故郷は地上の何処でもなく、父の居られる天の御国に在ります。主は最高の旅人&寄留者。世から理解されずとも常に父との親密な交わりを受けていました。世の全ての人々が本当の故郷を自分のために求めています。キリスト者は主との交わり、内なる聖霊の臨在が最高の故郷として存します。地上では故郷を後にした者ですが、たましいの故郷を永遠に持っているので、移り行く人間関係や評価に振り回されず、この故郷には最高の愛があります。旧約時代の先達は天の故郷へと歩みましたが、キリスト者は内に得ています。自分探しに明け暮れる人は多くても、私たちは最高の旅人&ホームレスです。
11月16日
都を待ち望んで
へブル11:8-12
「出て行き」(8節)「数多くの子孫が生まれた」(12節)アブラハムに学びます。地上においてその場が嫌だから「出る」、転勤を命じられて「行く」などあれば、従来の場がそろそろ潮時と感じ、熟考と祈りを重ねて「出て行く」もあって、人の進路は様々です。アブラハムの生涯については創世記に詳述されますが、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが(あなたに)示す地へ行きなさい」(創12:1)ハランに定住していてはならずに、原文だと「行きなさい!あなたは。」(文頭)命じられます。彼が即決したのか、葛藤したか熟慮したか記しませんが、「主が告げられたとおりに出て行った。」聖書は結果だけ語ります。一つ目にアブラムは「出る」「行く」何れが主でなく、彼が求め続けた神の御声との出会いにより「出て行く」、従順さがありました。以上の結果として二つ目に、原文で5回登場「あなたの」所有物を手放します。彼は資産家でしたが惜しんだりせず、主が語られたのだから主に献げました。自分の積み上げた財産や名声を惜しむことは、神より自分を上にする罪です。されど彼は「わたしがあなたに示す地へ」主との個人的関係に一任しました。

アブラハム家はハランを出てカナンの地に住みますが、土地の所有者とはなりませんでした。「住む」はある地域に外国人のようにして寄留する意です。これぞ信仰者のライフスタイル。家を持つのは決して不信仰ではないですが、ソロモンも神殿奉献の祈りで、主を入れるには及ばないと語ります(Ⅱ歴6:)。私たちの弱さは恵みで与えられた業績を、無意識のうちに自分のものとして、手放せなくなる罪です。エジプトやバビロンでの生活に慣れ親しんだ時に、そろそろ出発と主は背中を押し、羊飼いなる主は次の地に私たちを導きます。主の民の自意識は本籍が天、現住所が愛知県、御言葉下らば全て放り出して、動きますというアブラハムに倣うべきです。「設計者、また建設者は神」(10節)リフォームに際してこの御言葉に目を留めます。人間的な思いはありますが、全員が建て上げる宮ゆえ当然です。教会の真価は建物でも教勢でもなくて、集まる信徒各人の霊性、見えない御声を聴いて洞察する力です。「住む」には、寄留生活の他に「地に住み、誠実を養え」(詩37:3)地上で自分の持ち場を守り、ゴールは教会ごと挙げられることです。信仰の蓄積が数多の子孫を生みます。
11月9日
信仰がなければ
へブル11:4-7
①アベル~神に心から献げた人
主がカインの農産物でなく弟アベルの羊に目を注がれたのは、優劣以前に、心がこもっていたからです。人には見える部分や数字で評価されることでも、主の目には私たちがどのような心で献げたのか、恐ろしいことに見ています。初代教会ではアナニアがわざと土地を売って、一部献げて一部残した行為が、「人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(使5:4)断罪されて息絶えました。自分だって献金ぐらい出来るんだという、周囲への競争心があったでしょう。主イエスが称賛した寡婦(やもめ)は「生きる手立てのすべてを投げ入れた」(マコ12:44)信仰とまっすぐな思いがあります。主を見上げて献金も奉仕も行いましょう。

②エノク~神とともに歩んだ人
記述はわずかですが、「神とともに歩んだ」(創5:)と繰り返す大信仰者です。生きながら天に移された例は、他に火の馬&戦車で去られたエリヤのみです。「神とともに歩み、死を見ることがない」エノクの人生は永遠のいのちの型で、本来は主イエスが生きながら挙げられるべきところ、代わりに死を経験され、信じる私たちキリスト者が永遠の死から放たれました。ノアの記述を見ると、神に背を向けて生きる方がはるかに楽な、信仰者に苛酷な時代と思われます。けれども主の目には信じる者がいる、共に歩む者がいることが喜びなのです。主が取り去られる日まで、たゆまず置かれた場での奉仕に力を尽しましょう。

③ノア~神のことばをそのまま行った人
「内陸で箱舟を造るなど、実に馬鹿げた行為に思えたに相違ないが、この出来事でノアの信仰は明らかになり、人々の不信仰は罪に定められた。彼の信仰の質は即座の従順で証明されている。」(ブルース)「ノアは他人の嘲笑に挫折しなかった。神のことばを受け入れる人は往々にして、他人には愚か者と見える。ある意味でキリスト者は危険な存在である。正しい光は悪を暴露するからである。」(バークレー)それでも信じるのは選びの確信と救いの喜びと臨在の恵みがあるから。「神がおられる」「報いてくださる」ことを信じることは不可分です。ノアは自分の体験だけでなく、世界の救いとさばきを定めるため従いました。