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礼拝メッセージ
11月16日
都を待ち望んで
へブル11:8-12
武安 宏樹 牧師
「出て行き」(8節)「数多くの子孫が生まれた」(12節)アブラハムに学びます。地上においてその場が嫌だから「出る」、転勤を命じられて「行く」などあれば、従来の場がそろそろ潮時と感じ、熟考と祈りを重ねて「出て行く」もあって、人の進路は様々です。アブラハムの生涯については創世記に詳述されますが、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが(あなたに)示す地へ行きなさい」(創12:1)ハランに定住していてはならずに、原文だと「行きなさい!あなたは。」(文頭)命じられます。彼が即決したのか、葛藤したか熟慮したか記しませんが、「主が告げられたとおりに出て行った。」聖書は結果だけ語ります。一つ目にアブラムは「出る」「行く」何れが主でなく、彼が求め続けた神の御声との出会いにより「出て行く」、従順さがありました。以上の結果として二つ目に、原文で5回登場「あなたの」所有物を手放します。彼は資産家でしたが惜しんだりせず、主が語られたのだから主に献げました。自分の積み上げた財産や名声を惜しむことは、神より自分を上にする罪です。されど彼は「わたしがあなたに示す地へ」主との個人的関係に一任しました。武安 宏樹 牧師
アブラハム家はハランを出てカナンの地に住みますが、土地の所有者とはなりませんでした。「住む」はある地域に外国人のようにして寄留する意です。これぞ信仰者のライフスタイル。家を持つのは決して不信仰ではないですが、ソロモンも神殿奉献の祈りで、主を入れるには及ばないと語ります(Ⅱ歴6:)。私たちの弱さは恵みで与えられた業績を、無意識のうちに自分のものとして、手放せなくなる罪です。エジプトやバビロンでの生活に慣れ親しんだ時に、そろそろ出発と主は背中を押し、羊飼いなる主は次の地に私たちを導きます。主の民の自意識は本籍が天、現住所が愛知県、御言葉下らば全て放り出して、動きますというアブラハムに倣うべきです。「設計者、また建設者は神」(10節)リフォームに際してこの御言葉に目を留めます。人間的な思いはありますが、全員が建て上げる宮ゆえ当然です。教会の真価は建物でも教勢でもなくて、集まる信徒各人の霊性、見えない御声を聴いて洞察する力です。「住む」には、寄留生活の他に「地に住み、誠実を養え」(詩37:3)地上で自分の持ち場を守り、ゴールは教会ごと挙げられることです。信仰の蓄積が数多の子孫を生みます。
11月9日
信仰がなければ
へブル11:4-7
①アベル~神に心から献げた人
主がカインの農産物でなく弟アベルの羊に目を注がれたのは、優劣以前に、心がこもっていたからです。人には見える部分や数字で評価されることでも、主の目には私たちがどのような心で献げたのか、恐ろしいことに見ています。初代教会ではアナニアがわざと土地を売って、一部献げて一部残した行為が、「人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(使5:4)断罪されて息絶えました。自分だって献金ぐらい出来るんだという、周囲への競争心があったでしょう。主イエスが称賛した寡婦(やもめ)は「生きる手立てのすべてを投げ入れた」(マコ12:44)信仰とまっすぐな思いがあります。主を見上げて献金も奉仕も行いましょう。
②エノク~神とともに歩んだ人
記述はわずかですが、「神とともに歩んだ」(創5:)と繰り返す大信仰者です。生きながら天に移された例は、他に火の馬&戦車で去られたエリヤのみです。「神とともに歩み、死を見ることがない」エノクの人生は永遠のいのちの型で、本来は主イエスが生きながら挙げられるべきところ、代わりに死を経験され、信じる私たちキリスト者が永遠の死から放たれました。ノアの記述を見ると、神に背を向けて生きる方がはるかに楽な、信仰者に苛酷な時代と思われます。けれども主の目には信じる者がいる、共に歩む者がいることが喜びなのです。主が取り去られる日まで、たゆまず置かれた場での奉仕に力を尽しましょう。
③ノア~神のことばをそのまま行った人
「内陸で箱舟を造るなど、実に馬鹿げた行為に思えたに相違ないが、この出来事でノアの信仰は明らかになり、人々の不信仰は罪に定められた。彼の信仰の質は即座の従順で証明されている。」(ブルース)「ノアは他人の嘲笑に挫折しなかった。神のことばを受け入れる人は往々にして、他人には愚か者と見える。ある意味でキリスト者は危険な存在である。正しい光は悪を暴露するからである。」(バークレー)それでも信じるのは選びの確信と救いの喜びと臨在の恵みがあるから。「神がおられる」「報いてくださる」ことを信じることは不可分です。ノアは自分の体験だけでなく、世界の救いとさばきを定めるため従いました。
①アベル~神に心から献げた人
主がカインの農産物でなく弟アベルの羊に目を注がれたのは、優劣以前に、心がこもっていたからです。人には見える部分や数字で評価されることでも、主の目には私たちがどのような心で献げたのか、恐ろしいことに見ています。初代教会ではアナニアがわざと土地を売って、一部献げて一部残した行為が、「人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(使5:4)断罪されて息絶えました。自分だって献金ぐらい出来るんだという、周囲への競争心があったでしょう。主イエスが称賛した寡婦(やもめ)は「生きる手立てのすべてを投げ入れた」(マコ12:44)信仰とまっすぐな思いがあります。主を見上げて献金も奉仕も行いましょう。
②エノク~神とともに歩んだ人
記述はわずかですが、「神とともに歩んだ」(創5:)と繰り返す大信仰者です。生きながら天に移された例は、他に火の馬&戦車で去られたエリヤのみです。「神とともに歩み、死を見ることがない」エノクの人生は永遠のいのちの型で、本来は主イエスが生きながら挙げられるべきところ、代わりに死を経験され、信じる私たちキリスト者が永遠の死から放たれました。ノアの記述を見ると、神に背を向けて生きる方がはるかに楽な、信仰者に苛酷な時代と思われます。けれども主の目には信じる者がいる、共に歩む者がいることが喜びなのです。主が取り去られる日まで、たゆまず置かれた場での奉仕に力を尽しましょう。
③ノア~神のことばをそのまま行った人
「内陸で箱舟を造るなど、実に馬鹿げた行為に思えたに相違ないが、この出来事でノアの信仰は明らかになり、人々の不信仰は罪に定められた。彼の信仰の質は即座の従順で証明されている。」(ブルース)「ノアは他人の嘲笑に挫折しなかった。神のことばを受け入れる人は往々にして、他人には愚か者と見える。ある意味でキリスト者は危険な存在である。正しい光は悪を暴露するからである。」(バークレー)それでも信じるのは選びの確信と救いの喜びと臨在の恵みがあるから。「神がおられる」「報いてくださる」ことを信じることは不可分です。ノアは自分の体験だけでなく、世界の救いとさばきを定めるため従いました。
11月2日
目には見えないもの
へブル11:1-3
武安 宏樹 牧師
本書の流れは10章最後から12章にスキップしても、違和感がありませんが、読者たちを引き付けるため彼らの敬愛する、先人たちを本章で列挙しますが、アブラハムやモーセ以前に「この世界が神のことばで造られたこと」(3節)に信仰の出発点があると主張します。10章最後と1節の「信仰」は同じ語であり、信仰の偉人伝イコール忍耐の偉人伝です。1節には信仰とは何ぞや?という、聖書の他には登場しない定義がなされ、これだけで片づけるのは乱暴ですが、信仰の究極について的をついています。神の約束は未来に関することですが、彼らは必ず実現すると信じて、現在すでに得ているかの如く行動したのです。「あなたは、わたしが示す地に行きなさい」(創12:)素晴しい信仰と称賛されるアブラハムの旅立ちは、世の常識から考えれば全てを捨て何の拠り所も無い、新たな一歩を踏み出す狂人です。「千里の道も一歩から」されど努力を重ねて、ゴールに到達する保証は無く、道半ばで軌道修正を迫られる人生が多いもの。たしかに一歩踏み出さなければ道は開かれず、「行けば分かるさ」は楽観主義。けれども神と歩む道は、何も無い荒野を主が手招きし広い道が出来るのです。
武安 宏樹 牧師
世の中は見える物事だけで動くのではなく、見えない諸霊が働いていると、わが国の宗教性は先祖&神々や、パワースポット&占い&チャネリングなど、昔も今も不変で、若者はSNSで人だけでなく霊のつながりも求めています。目に見える経済や政治の行く末が期待できず、中長期的展望が描けぬ今日は、苦しみは避け、忍耐は養われず、人格も練られず、必然的に希望も見出せず、人々は当面の楽しみに気を紛らわして足踏みを続けます。心の深い部分には、十字架の形をした空部屋があり、自分の好きな物事や霊的志向で埋めようと、あらゆる努力をするも、キリストとの永遠の出会いで人は内から変わります。目に見える事だけでなく、時間と空間を超えた愛の御手を主が摂理の御手で、動かされる中に、信じる「私」が個人的に用意された道を見出し心が震えます。「望んでいること」の主語は人の側でなく、受動態から神が用意する望みです。皆さんはやがて絶える見えるものでなく、見えないけれど確実に生きて働く、御言葉に導かれていますか。聖化とは世の価値観から離れて、見えない道を祈りと御言葉で歩むこと。その道筋に後で救われる人々がついて来るのです。
10月26日
信仰と忍耐
へブル10:32-39
武安 宏樹 牧師
本書第二部の19節以降は、一つ目にキリストにあって大胆に近づく積極面、二つ目にキリストを遠ざけてさばかれる消極面、そして本日箇所の三つ目に、以上二点を統合し、離れそうな苦難を越えて近づけられる信仰の道について、私たちがどのように受け止め歩むべきか、戦いの中で励ましつつまとめます。著者の温かい視点が32~34節で、読者たちは駄目な信仰者などでなくむしろ、救いの確信を堅持し苦難を共にし、「同志となった」ことを、高く評価しつつ、「苦難」「確信」「忍耐」「信仰」などのキーワードから、現状では混乱し絶望して、散らばった信仰のメカニズムを、枯れ骨に息が入って生き返り立てるために、彼らの腑に落ちるよう再構築を試みます(エゼ37:)。こういう時に必要なのは、教えだけでなく、痛みを受け止めて共に希望を探索するカウンセリングです。一時は燃えるような信仰で、主に仕え教会に献げ伝道の最前線に立つ兄姉が、離れてしまったのは何故か。新しく救われて会員原簿が増すのは喜びですが、消息不明で悲しくも除籍簿に移す方が出ないように、働き掛けも大事なこと。教育と牧会に励めど倒れる人は多く、福音理解ゆえですが考えさせられます。武安 宏樹 牧師
「苦難⇒忍耐⇒練達(れんたつ)⇒希望」(ロマ5:3-4新共同訳)パウロの言葉を重ねます。信じて間もない頃は祈りと御言葉の努力から、何でも身につけようとします。自分の努力だけでなく牧師の助言や兄姉の支えなど、教会の交わりも大きい。ところがどうにもならない時が必ず来ます。悩みと混乱で出口を見出せない、そんな時は医者に処方箋と薬を求めますが、聞かれない時どう受け止めるか。先述の四段階で途中の「忍耐」「練られた品性」が重要で、一つ目「忍耐」原意は、自分の立っている所にしっかり踏み止まる意です。嵐収まらず答え見出せず、されど焦らず希望失わず、淡々と悔い改めと赦しに生きる生活を続けること。私たちは飛び道具を求めますが、神の目には忍耐に時間をかけて、私たちが、主に信頼するだけに活路を見出すようになることを、願っておられるのです。「時」の見方は神と人で違います(伝3:)。それを待ち切るのが「練られた品性」。原意は試される&保証される&本物と認められることで(ヤコ1:3/Ⅰペテ1:7)、私たちの人格がキリストのものとされるために、忍耐で焼きを入れられます。痛みを伴う試練は遠慮しがちですが、以上の四段階は恵みのサイクルです。