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礼拝メッセージ

2月8日

戦いの勇士
へブル11:32-34
武安 宏樹 牧師
敵から隠れるように小麦を打ち、御使いの声に尻込みしていたギデオン、敵を討てと言われても、預言者同行無しには行かないと駄々こねるバラク、ナジル人なのに異教徒と結婚や買春など如何わしい生活を送ったサムソン、ごろつきと略奪する娼婦の子、主の前に軽率な誓いゆえ娘を奉献したエフタ、王の権力を笠に着て略奪婚と部下殺しも、預言者の指摘に悔い改めたダビデ、仕える祭司の教育不足で不肖の息子らがさばかれるも、従順に従うサムエル。人格的に欠陥のある者、気の小さい者、育った環境の宜しくない者もいます。けれども不完全な信仰ながら、神に用いられたことに私たちも励まされます。「獅子の口をふさぎ~火の勢いを消し」はダニエルと、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。「しかし、たとえそうでなくても~」(ダニ3:18)信仰の白眉です。「剣の刃を逃れ」はエリヤ&エリシャ&エレミヤか。「弱い者なのに強くされ」以上の旧約時代の勇士たち全てだけでなく、私たちにも同じことがいえます。信仰の力は原子爆弾のように破壊力があり、敵対者を恐れさせて屈服させて、悪魔を震え上がらせるだけでなく、当人を造り変えて御名をあがめさせます。

私たちはどんな戦いがあるでしょう。「信仰」ですから神との関係が人との関係より先に来るべきで、ここで妥協するとズルズルと後退していきます。常に自分の弱さと神の強さを覚えて、悔い改めと謙虚な信仰を保つことです。一歩一歩を御言葉の光に照らし続けるのが信仰者です。兄弟下位のダビデが、主から呼ばれました。ふさわしくない者が選ばれることを「恵み」といいます。私たちの弱さは信仰の不足よりも、己の力で強行突破する傲慢さにあります。この傲慢は己を神とする者の特徴、偶像礼拝も諸霊も用いて頼ろうとします。私たちが戦うべきは、右でも左でも教会内や教派間などの内輪もめでもなく、「支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天上にいるもろもろの悪霊に対するもの」(エペ6:12)ゆえに、以下のリストの如く武具で身を固めることと、それだけでは知らず知らずのうちに、自分の力で戦って消耗してしまいます。「苦難のしもべ」(イザ53:)がありのまま引かれて、火の中に屠られる彼方に、「末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」悪魔は地団駄踏みます。恵みを受け、武装し、砕かれて、明日を見ましょう。
2月1日
紅海を渡る
へブル11:28-31
武安 宏樹 牧師
本日の箇所で28節の過越だけ主語はモーセですが、29・30節は「人々」です。旧約の民は概して不平&不満&不信仰で主を怒らせ、罪人の性丸出しですが、何故かピタッと御言葉と指導者に集中してまとまる瞬間が、幾度となくあり、モーセ&ヨシュアの優秀さもそうですが、聖書が全体としてとりわけ本書は、信仰そのものの優越性を語り、指導者だけでなく民全体が御言葉に応答して、全員が奇跡の目撃者、家族で羊を用意し血を塗る奉仕者として体験します。同じ血を共有してみな救われる。キリストの十字架と聖餐の型となりますが、血の共同体の確立なくば、「人々」となって紅海を渡る奇跡も無かったのです。私たちの家族は同じ血を共有するゆえに、不承不承でも世話をし合いますが、主の民は血縁関係ではなく、血を塗られた人々として「親分」を共有します。以前の人生にキリストと共に死んで、新しいいのちは聖霊を内に宿すゆえに、キリストの血が流れている者同士で、信仰なくばあり得ない結合が教会です。追い詰められた民はモーセに責任転嫁しますが、「主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは,ただ黙っていなさい。」(出14:14)一喝しました。

指導者の耳に喧しいから黙れ!ではなく、あなた方の気持ちも察するが、 恐るべき神に集中するため人間的な思いを静めよと。「合議制」も尤もですが、 その上に「聖書信仰」の絶対的規範があり(教団三原則)、静まる時に静まらず、 みんなで御言葉を聴かないと自滅します。モーセは語られた通り杖を上げて、 その姿を見て民は一つになり、海は開かれみんなで通る奇跡を経験しました。 個人的な聖霊体験も素晴しいですが、集まって賛美し祈る中に恵みは力強い。 紅海は敵から逃れる中で開通し、エリコの壁は攻める中で陥落します(ヨシ6:)。 「この巡回は児戯に等しく馬鹿げたものだったが,彼らは神の命令に従った。 城壁は人間の叫びや物音や,トランペットの響きで崩れ落ちたのではなく,民 が神の約束された業を待ち望んだから落ちた」(カルヴァン)みんなの力の結集が、 教会でなくて何でしょうか。最後に遊女ラハブは系図に名が記されて(マタ1:)、 異邦人&異教徒の卑賤ながら、ルツの義母&ダビデの高祖母でキリストへと、 ただ主への信仰で接ぎ木されたこと自体、人間的な常識を覆すものでした。 今月は壁を壊す前の備えの時。私たちも自分の壁を壊してつながりましょう。
1月25日
恐れることなく
へブル11:23-27
武安 宏樹 牧師
モーセは不思議な誕生をしました。男の赤子みな溺死との王の命に拘らず、「かわいいのを見」母が子に特別な計画を感じたか、葦の茂みにかくまいます。監視していた姉は見つけた王女に、ヘブル人の乳母と称して実母をあてがい、まさに「葦の海=紅海」「籠=箱舟」神の計画と彼女らの信仰・知恵の結果です。信仰深い姉の機転により、母は十分な賃金と王家の庇護の下でモーセを育て、後にエジプト王家で当時の世界で最高の教育を受け、指導者に資することに。人の目に偶然と見えることも、神に偶然はなく歴史的な神の御手に在ります。王には皮肉な結果で、ヘブル人の弱体化どころか娘とイスラエルの解放者のモーセを引き合わせて育てることが、宮中で公然と行われていたのでした。けれども知恵がつくほど、自分が何者かアイデンティティを求める思いから、外の世界へ出て行く機会を伺い、同胞が打たれている苦役を目撃したことで、義憤から加害者を殺害します。彼の期待に反して同胞からの支援も得られず、王からは追われる身となり、彼は自分の行動の間違いに気づいて王を恐れて、親族を頼りミデヤンに退きます。神からの確信より感情が先走った結果です。

打って変わって1500年後の本書は、彼の落ち度を「キリストのゆえ」と肯定。一見矛盾に見えますが、もし殺人を犯さなければ名誉も安全も守られたのが、宮中での罪深い生活に染まるよりも、リスクを省みず同胞を守る方を選んだ。人間なら恐れない人はいません。モーセだけでなく赤子時代の両親も姉もで、それも王の命令や法の倫理に違反する、犯罪を犯すのだからなおさらですが、ルールを無視してよいなどと、聖書が語っているのではありません(ロマ13:1)。世では可でも不品行や偶像礼拝を強制され、断るなら不利益を被る場合でも、キリスト者は世の権威の上に神の権威を恐れて、判断しなければなりません。モーセから学ばされることは、御心に従おうとする時に恐れつつも恐れ無く、一歩踏み出すことができることです。まことの神を恐れる者は大前提として、常に恐れを持っています。神を信じているので、何も恐れたことが無いなど、豪語する人は罪への神の怒りや、不従順への審きの厳しさを知らない人です。神より人を恐れると大口を叩いたり言行不一致で、要するに霊性の問題です。主は間もなく地上に再臨されます。「主は私の助け手。私は恐れない。」(13:6)
1月18日
死の向こうに
へブル11:17-22
武安 宏樹 牧師
「イサクを死者の中から~ヤコブは死ぬときに~ヨセフは臨終のときに~」本日のキーワードは「死」。彼らは死で終わらない永遠を確信していました。「はるか遠く」(13節)は地理的だけでなく、空間&時間を超えた遠さの意です。私たちの目はどこを見ているでしょう。現代社会は自分と周りのことばかり、近視眼的にどうすれば自分たちの益になるか次第で、行動する人ばかりです。モーセの目は約束の地を一望し、入れずとも落胆しなかったのは次の世代に、希望を置いていました。アブラハムのイサク奉献は旧約屈指の有名な物語で、子孫祝福の御言葉がどのように実現するのか。妻サラは生理が止まっており、死せる胎からの誕生から、神のことばは死から生を可能にすると分かります。普通の信仰者ならば苦節100歳イサク誕生で、生涯のゴールと思うでしょう。人間の弱さは自分の努力で無く神の恵みであっても、与えられると自分のと、握りしめることで、以降感謝はしても神と人に還元を惜しむようになります。アブラハムがイサクを殺そうとしたのは、子が主からの恵みである以上は、握りしめず徹頭徹尾主にお返しする中で、死から生への奇跡を見たのです。

人間的にはイサクを通して祝福の約束が反故に、神は詐欺師となりますが、アブラハムは子の中に、来るべきキリストの死から復活を読み取ったのです。闇雲に献げるのではないですが、私たちも最も大事な「独り子」を献げないと、死から生のダイナミズムが解りません。イサクがエサウでなくヤコブ祝福も、常識を超えた神の主権的恵みで、2000年後に末裔の主イエスとヘロデ大王の、魔の手をくぐり抜ける祝福のしぶとさを見ます。ヨセフは立身出世の地でも、彼は寄留者に過ぎず、神の約束の通過点に過ぎないことを解っていました。私たちも「骨を埋める覚悟で」証ししますが、地上は永遠の住まいではない。死の向こう側の世界を現在進行形で生きる民です。「彼らは自分たちの死だけを見つめてはいませんでした。死に縛られた人生には自由がありません。それから解放される時、人はどんなことでもできるようになります。」(尾山)「彼らは神の約束が実現すると信じて疑わなかった。彼らは絶望せず希望を持って死んだ。その信仰が死に打ち勝った。彼らは死んでも神の約束はなお生きていたからである。ここに永久に残る偉大さがある。」(W・バークレー)