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3月3日

霊の見分け方

Iヨハネ4:1-6

武安 宏樹 牧師

前章で偽信者は隣人愛に欠けている、共同体的特徴について説明した後に、本章は彼らが「御子を否定する者」(2:22)との個人的特徴に話を戻しながら、5章までキリストが私たちと同じ人間性を取られた、重要性を説明します。「霊の見分け」は因習の強い地域における、人的地域的な霊的解放の必要から、20世紀終盤より宣教学的に注目され、聖霊の顕著な働きを知らしめましたが、その反面で福音が可視的基準で測られ、人為的になる弊害をもたらしました。パウロもキリストの肢体論で「霊を見分ける」(Ⅰコリ12:10)賜物を明記しつつ、自分の罪深さを偽装するために、聖霊の力を借りて敬虔にふるまうのでなく、真の見分けとは、私たちと同じ人の形で来られた御子の恵みを知ることです。「凡(すべ)ての霊を信ずな」(1節文語)キリストの神性や人性を巡っては、三位一体はじめ神学的議論が積み重ねられ、以上を否定する異端は退けられましたが、今に至るまで惑わしの霊は信者の道を踏み外させて、教会をかき乱すために、聖書全体のバランスを欠いたり、神のことば「である」⇒「となる」と教えたり、聖霊の働きと称して人為的解釈に走ったり、諸霊を「吟味せよ」と警告します。

「人となって(=肉をもって)来られたイエス・キリストを告白する霊」(2節)こそが信者の真贋をテストする基準です。罪深い我々と同様の肉体を纏(まと)われ、来られたことを救いの恵みとして受け止めて、告白しなければ偽りなのです。偽信者の誤りは肉体を悪い欲望を生む癌として脱ぎ捨て、人間以外の存在になろうとしたことです。「反キリスト」=「反肉体」。肉体には体と心も含まれ、私たちも情欲や憎しみといった肉の欲を受け入れるより、克服しようとして、苦闘してきた者です。けれども本当に罪深く肉欲に満ちて人間的な私たちと、同じ姿で同じ誘惑に遭い同じく苦しみ、とはいえ罪は犯されなかった御方が、私たちの罪のために死なれた。だから肉体から目を背ければ、自分の罪から目を背け、キリストの肉体から目を背けることになり、ここに惑わしの源が存在します。神がどんなに温かい心で御子を送られ、私たちの罪を犯す場に、憐れみの目を注ぎ続け、断腸の思いで御子を死に至らせたか目を背けるなら、福音の核心から的を外すのです。「告白する」原語は同じことを語る意味です。内なる肉体のキリストが声を響かせ、人間臭く愛し合う交わりを生むのです。

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