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3月24日

恐れない愛

Iヨハネ4:17-21

武安 宏樹 牧師

「全う」が3回登場。私たちの内に罪の身代わりとしていのちを捧げられた、キリストの完全な愛があるからこそ、数え切れない欠けが覆われ赦し合える。夫婦も親子も牧師&信徒間も、愛が在るかどうかが価値基準です(エペ5:)。神の愛は被造物を通して満ちていますが、私たちの愛により公にされます。「全うする」は主の受難に際し、神の御心全てが成就して「完了した」(ヨハ19:30)と同じ語です。「恐れ」はさばかれる恐れで、愛による信仰の不足に因ります。反キリストの霊はサウルのように、過去の罪を悔い改めず放置した傷みから、王座を狙われているという猜疑心や、心の浮き沈みに苛まれやがて死に至り、「恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていない」(18節)恐れと愛は水と油の関係です。「恐れが少しも取り除かれなくても、私たちが神のもとへ、あたかも安全な、難破の危険も嵐や豪雨の危険も無い港へ向かうように馳せ行く時、恐れは実は取り除かれている。恐れは信仰に道を譲ったからである。神の愛をよく知った時、人々の精神は平穏になるから」(カルヴァン)「締め出す」直訳「投げ捨てる」。信仰成長は神との関係で徐々に深まります。

「私たちは」(19節)が強調され、「恐れる者は」(18節)と対比されています。神を愛し人を愛そうとする動機、神のさばきや人の評価を恐れない大胆さは、こんな罪人さえ神が愛されるという、自分でなく神の愛に出発点を置きます。20&21節は恐れる者の反応と、恐れつつ神と隣人を愛する者との対比です。難しいのは恐れが誰にでも均等ではないことで、母の胎にいる時から不安定、幼時に親から虐待や他人と違う性質など、人一倍の罪悪感と恐れを抱きつつ、疎外感から身を傷つけ、そういう集まりしか居場所を見出せない人もいます。関わる私たちも彼らに深く思いを巡らしながら、傷つける恐れに苛まれます。人間関係の深みに漕ぎ出すと困難を覚えます。心のどこかで報いを求めます。「愛する」とは何でしょうか。私たちの愛は条件付きの愛になっていませんか。愛のために悩み苦しむことは無意味でしょうか。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」病める人々も、体を外傷や罪を背負う痛みも、以上理解されない孤独感も、御子が傷つき献げた神の愛に不足はありません。恐れが来るたび「アバ、父」(ロマ8:15)と叫ぶ、恐れど恐れない愛があるのです。

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