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4月13日

さらしものにする者たち

へブル6:4-8

武安 宏樹 牧師

受難週に本書で最も難解で暗い箇所から学びます。私たちの漠たる不安に、どこまで行けば崖から滅びに転落するか、救われた後も罪を大小犯す者です。赦しは「もし私たちが罪を告白するなら~きよめてくださいます」(Ⅰヨハ1:9)御約束がありますが「すべての罪から」に例外があるのか。やらかした場合は、かつて忠実でも離れた者は、除名処分を受けた者は、などなど気になります。私たちは視点を神に移すことで理解が可能です。共通するのは聖霊に逆らう生き方ということです(10:26-31/マタ12:31-32)。創造が神の業であるように、私たちも誕生~回心~召天に至るまで、人生が聖霊に囲まれて生きています。信じる前は外側で働く御霊は、時至って自分から扉を開いて受け入れて以降、キリストは内住され、部屋の椅子に御霊が座るか自我が座るかの争いとなり、信じてもお迎えしなかった者は、最初から救われていないことになりますが、お迎えしたならば主の近くか遠くかの違いなので、いったん救われた人でも、漏れてしまうならば神の問題となってしまう。だから大丈夫と言えるのです。

では本日の箇所で「立ち返らせることはできません」(6節)何故言われたか、「あなたがたについては~確信しています」(9節)との信頼から見えてきます。「本章は真の信仰者が堕落する可能性があると、ヨハネ10章はそうしないと。これは個人の自由を保っている。信仰者は信仰を拒否する能力を持つが、拒否しないことを自由に選ぶのである。親が柵を張り巡らせば子どもは庭から出られないが、自由を取り去ることになる。危険性と注意の重要性を教えて訓練するなら、恵みのあらゆる手段を用いて神への献身に留まろうという思いにさせてくださるのである。堅持の教理から信仰者は自分たちの教理が永続的であり、神の愛から引き離すことのできるものは何もないと喜ぶことができる。一方でこの教理に怠惰や無精を認める余地は無く、そのように考える者がいるなら、本当に回心し再生したのか疑わしい」(エリクソン)神は私たちが、救いの道を進み続け道を踏み外さないように、御霊を送ってくださいました。だから罪を犯したら告白して赦しを得、罪を犯し続け御霊を消さないように、気をつけましょう。「聖霊の冒瀆とは無謀にも神の御名をはずかしめようと、意図的に突進する場合を言う」(カルヴァン)恐れつつ恵みの中を歩みましょう。

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