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2月9日

神の安息②

へブル4:1-4

武安 宏樹 牧師

創造7日目は「夕があり、朝があった。第7日。」と閉じられていないことで、今に至るまで安息は継続しています。この安息を自分のものとするために、原文で1節文頭は「恐れようではありませんか!」動詞一語で強調しています。3章では荒野40年における失敗と、繰り返し神を怒らせたことを真剣に考え、同じ災いが降りかからないよう恐れよと。御言葉が語られても頑なに拒んで、敵が巨大で怖いからと聞く耳持たず、モーセの世代はみな滅んでしまいます。次のヨシュア世代でカナンに入れましたが、信じる者に用意された素晴しい安息を彼らが反抗して受け取ろうとしなかったことを、著者は嘆いています。斥候隊の報告を聞いて「神の約束通り素晴しい地で、敵に必ず勝利できる」か、「私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、そう見えただろう」か。両者の反応の違いは明らかで、主がどのような方で何をなすことが出来るか、主を忘れ自分本位の人間的憶測で、不利益を被るのを避けるのを選び取るか。信仰の有無で安息は決まります。果して私たちの安息はどこにあるでしょう。カナンの地か日曜の教会か天の御国か、以上3つとも形は違えど存在します。

「信じた私たちは安息に入る」(3節)から「信じた」は一回完結の決心を表す過去時制、「入る」は継続的に「入り続けている」現在時制で能動と受動の間の、中態なので自分で入るだけでなく、安息の中に(=into)入れられる意味です。キリスト者=「安息人」。だからと言って仕事しない、人を助けないではなく、地上で主の似姿に変えられる聖化の歩みにおいて、ここまで働いたけれども、ここからは手を休めて主に委ねると、現在進行形で神の安息を学ばされます。斥候隊の報告を聞いた民は、動かなければならなかった時に動こうとせずに、さらに悪いことにその罪悪感から、動くなと言われた時に攻め込もうとして、敗走しました。自分の思いで行動を決めることがあまりにも多いことから、「恐れる心を持とう」と。「恐れ」には人間的恐れと神への恐れの意もあります。私たちのデボーションは観察&黙想までよくやりますが、適用をどう行うか。御霊の平安を手掛かりに、キリストがくださった安息の答え合わせをします。 焦ったり喜怒哀楽に任せたり余計なことを言ったり行ったり、人間的な情で動きがちですが、直前に安息を受ける間があるかが成長に大きく関わります。

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