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3月2日

優しく接すること

へブル5:1-4

武安 宏樹 牧師

私たちは憐れみ深い大祭司イエスを先に考えがちですが、聖なる神の前に、自らの罪深さを認め、無能な私たちのために御子がいのちを投げ出された、救いの恵みによって生かされている順番が大事で、御言葉が心の奥深くまで刺し貫かれるのに比例して、うわべではなく主イエスの優しさが現されます。「同情する」(4:15)と「優しく接する」(2節)は、協会訳では共に「思いやる」で、前者は主イエスの人に対する完全な同情、後者は大祭司の人に対する接し方。皆さんは目の前で苦しんでいる人に対して、「わかりますよ、同情します。」と、言えるでしょうか。自分が苦しむ時にこの言葉をかけられたらどうでしょう。自分と似た苦しみを経験した人であれば、わかってあげたい力になりたいと、かりに相談を求められたらなおさら願い、細心の配慮で寄り添おうとします。それでうまくいったでしょうか。そうでなければ何が原因だったのでしょう。心が通じたようでそうでなく、かえって踏み込み過ぎて痛みを与えることも。あの時ああすればと悔いつつ、愛も知恵も忍耐も無い自分の無力を覚えつつ、全知全能の御方以外「同情」は成し得ず、聖霊の意思疎通に委ねるばかりです。

「優しく接する」原語は悲しみと無関心の両極端を避けたちょうど中間の、正しい感情「中庸」(伝7:16-18)の意です。「これはすばらしい語で、苛立たず、迷惑がらず忍耐して人に接する能力、愚かな人、察しの悪い人、何度聞いても理解できない人に対して苛立ちを抑える能力で、また他人の過ちを怒ったり、悔やんだりせず、その日のうちに気持ちを整理し優しく力強く気持ちを察し、忍耐してその人を正しい道に連れ戻し、神に導き返す態度である。」(バークレー)調和の取れた「ほどほど」が良いのですが、これほど難しい境地もありません。語り過ぎず黙り過ぎない、内で祈り過ぎず外で奉仕し過ぎない、その塩梅は、どのように見出せるのでしょうか。一つ目に失態を犯したアロンが大祭司に召されたように、自分の力の限界を認めて彼方に聖霊の働きを見ることです。偏らず頑張り過ぎず「7割」を目指し、剛速球よりも丁寧に四隅をつく投球で、余計な力を抜きます。二つ目にチームワークで、必ずしも自分ばかりでなく、第三者に委ねることで解決することは多く、各人が賜った賜物を持ち寄って、協力すると違う視点が与えられて謙虚になり、教会に同情の実が咲くのです。

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