メッセージ
MESSAGE
善と悪を見分ける感覚
へブル5:11-14
武安 宏樹 牧師
信仰の年数は長いにもかかわらず、霊的に「鈍くなっている」人についてで、私たちは日々どのように聴いているでしょうか。性格的に鋭い人も鈍い人も、理知的な男性も情緒的な女性も、いずれにせよ肉体と精神が備わっています。問題は以上の内奥に存在する霊性について、三つのタイプの部屋があります。一つ目はイスがあるが自分が座っている空き部屋、霊的に死んだ未信者です。信仰的な思考と判断は出来ませんが、世の倫理観や良心の呵責は存在します。けれども罪人は悪魔の支配下にあって(エペ2:)、際限なく罪に罪を重ねます。二つ目はイスの上に、キリストが平安のうちに腰掛けている健全な信仰者で、耳が開かれ祈りと御言葉と愛の業をもって、主の似姿に変えられていきます。三つ目が本題で、部屋の中に主が居ますがイスに座らせてもらえず相変らず、自分がどっかり腰を下ろし、普段は主よ押し入れで静かにしてと閉じ込めて、自分が苦しい時や寂しい時や困った時だけ、さあ出てきてくださいと手招き、さらにひどいことに主をイスに縛り付け、今すぐ楽になる道を教えたまえと、自己中心で残念な信者です。主を信頼せずボンヤリして死にかけた霊性です。
「鈍い人」といえば亀や象の如くのんびり、マイペースな人を想像しますが、生き方はウサギも亀でも、キレッキレでもマイペースでも、心の深い部分が、神を愛し隣人を愛するためにへりくだって、主との親しい交わりがあるなら、それでよいのです。大事なのは人間的ではなく神の評価で判断することです。御言葉に刺し貫かれていればOKです(4:12)。同じ原語で「怠け者」(6:12)と、主の交わりを避けて、自分のために犠牲愛を示された方を押し込めながら、平然としていることが霊的な鈍さで、大人が母の乳房を吸う様に喩えます。パウロはこういう人を「肉の人」と呼び、「御霊に属する人」と対照し(Ⅰコリ3:),
神との関係だけでなく、「ねたみや争い」で教会の空気を悪くすると言います。そこで「善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練」が必要。「見分ける」とは、「さばく」(ロマ14:1)意。「感覚」=「識別力」(ピリ1:9)。何が御心で罪であるかを、生まれつきの性格ではなく、「経験」による「敬虔」な生活の積み重ねなのです。「訓練」は自分と聖霊の合弁。私たちは日々の生活に起こることを深い洞察で、さばきつつ深い悔い改めと、それ以上に深く赦しと恵みを味わいましょう。