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3月9日

叫び声と涙をもって

へブル5:5-10

武安 宏樹 牧師

7節から見ていきます。「肉体をもって生きている間」直訳「肉体の日々」。キリストが神秘的存在とかプラスアルファの知恵など、人間離れした霊との、惑わしを退けるため、罪は犯しませんが私たちと同じ肉体を持たれたことが、非常に重要と語ります。真の神であることや真の人であることを否定したり、父より御子が下位とする異端は、二性一人格教理から退けられてきましたが、人であることの意義について、私たちはピンとこないのではないでしょうか。著者は肉体を持たれたキリストが、私たち同様に恐れと不安に直面しながら、「大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ」る姿から学ぶだけでなく、私たちの人生のこととして深く思いを巡らせてほしいと、願っているのです。同じ語でパウロは「肉」が新しい霊の働きを妨げる、古い人間性に用いるので、悪い印象があるかもしれませんが、「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」(ガラ2:20-21)罪や古い自分と戦いながら聖化される消極面に加え、主イエスのゲツセマネにおける迫真の祈りは、信仰による肉体の究極でした。

与えられた肉体を100%神に向けて献げきるのが、主イエスの敬虔さです。肉体を持たれたからこそ、人間同様に「大きな叫び声と涙をもって」祈られた。だから私たちも地上で罪と肉の戦いがある間は、同様に祈らねばなりません。主に比べて敬虔さの欠けた私たちは、自分の願いばかり一生懸命祈りますが、不純な祈りでも投げやりなのと、喧しく涙を流して祈るのでは違ってきます。自分の祈りが不純か気づかない愚か者だからこそ、心の底から感情を注いで祈ると主が肉体で経験された痛み苦しみが迫ります。聖霊体験とも言えます。「『祈りに三つの段階がある。祈りは静かである。叫びは声を上げる。涙はその上を越える』どんな人でも悲しみを経験しない人はいない。イエス・キリストは苦しみもだえる涙の祈りを知っておられた」(バークレー)感動するだけでなく、祈りの自己中心を悔い改めることが大事です。苦しみを体裁よく人の意見や自分の悟りでまとめるのでなく、ヨブの如くぶつかって追い求めることです。古い皮袋にしがみつくのでなく、建物同様私たちもリフォームされましょう。その信仰の中に大祭司が立っておられます。主の前に真実でありましょう。

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