トップ > 礼拝メッセージ
礼拝メッセージ
8月24日
完全ないけにえ
へブル9:23-28
武安 宏樹 牧師
人類最初の殺人者カインは「あなたの弟アベルはどこにいるのか」問いに、全能の主の前に白を切ります。心頑なに逆ギレするのは、自分の小さな器にあなたが求める罪の責任は担いきれないという、恐れと拒絶がありました。けれども遡るとこの罪は憎しみが沸く以前に、もっと深い所に端を発します。兄弟の奉献物の優劣や主が弟を偏愛したのでなく、カインの心がひねくれて、自分を造られた方に対して根深い不信感と、自分中心の高慢がありました。汚れた心が悪魔と結びつき開き直るのは、園を追われた父母と変わりません。しかし主は「今や、あなたはのろわれている」指摘に、彼は目覚め罪を認めて、「私の咎は大きすぎて、負いきれません」そこに主は彼への憐みを約束します。武安 宏樹 牧師
ここに神と人間の罪観が違うことを知ります。もしも主がカインに対して、許されざる大罪ゆえに、復讐されないよう供養と慈善に励めと言われたなら、彼の余生は償いで終わります。けれども彼が罪を認めて自分で受け入れた時、主はのろいを撤回されただけでなく、復讐禁止令で守り生活まで備えられた。本日の聖所礼拝が「何度も」繰り返すのに対し、キリストが「ただ一度だけ」で、全うされたとありますが、聖所礼拝は日本的な供養や慰霊とは全く違います。十戒の第一は「あなた」と「わたし」の、救いに基づく契約関係が出来ています。救われたのだから罪と世と悪魔に惑わされず、わたしだけを見上げなさいと。されど犠牲を献げ続けても、どうしても心が離れてしまうのが罪の本質です。
「義人はいない。一人もいない」(ロマ3:10)歴史上に完全な犠牲を献げた者は、アベル含め一人もおらず、カインは神への不信を弟に八つ当たりしましたが、「私の心が離れていました。」悔い改めたならば、悪魔も離れ殺さずに済んだ。けれども神の前に素直な心で、神の国と神の義を第一とは何と難しいことか。彼の如き不信と憎悪や大祭司の空しい奉仕を、「終わり」にする最終兵器こそ、キリストの完全な犠牲です。罪を「取り除く」=廃棄&廃止&無効の意です。罪人が孤独感&疎外感&不信感に死ぬために、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(13:5)私たち一人ひとりは小さな土の器ですが内側に全き愛の器が在し、自分ファースト&分断の時代に証しとなるのです。
8月17日
『塩狩峠』で飛び降りる
Ⅰコリント1:18/ヨハネ12:24
森下 辰衛 先生
『塩狩峠』のテーマは「犠牲の愛」だと三浦綾子は語りまし『塩狩峠』で飛び降りるたが、それは「馬鹿になる幸せ」といっても良いでしょう。更には「にもかかわらず愛し、にもかかわらず信じ、にもかかわらず従う」ダイナミックな喜びと楽しみといっても良いでしょう。森下 辰衛 先生
人は損しないように、失敗しないようにと自分にも他人にも要求します。学校も職場もそのように出来ています。しかしそれには、強いストレスを伴います。でも、もし、損得の勘定や失敗を恐れる心から解放されたら、どんなに生き易くなり、生きることが喜びになるでしょうか。
27歳の私を神様が拾ってくださったとき、私はイエス様のためなら何でもしようと思いました。感動し感謝すると人間は馬鹿になれますが、悲しいことにやがてまた賢くなり、計算するのです。でも、神様はもう一度馬鹿にならないかと手を延べてくださる方です。
人生は神の言葉に対する態度によって変わります。アダムとエバも、イスラエルの民も、アブラハムもそうでした。神であったにもかかわらず人間になり、罪がなかったにもかかわらず十字架刑にされたイエス様の生涯は人類の救いという奇跡を果たされました。私たちは自分の無力や悪い状況を見て落胆しますが、その時こそ「にもかかわらず」の奇跡である十字架を見ましょう。神さまはいつでも、にもかかわらず愛し、にもかかわらず信じ、にもかかわらず従う馬鹿と共に奇跡をなそうと待っておられます。神の言葉は愚かに見えます。でも神の言葉と共にあざけられる側に立ちましょう。神の言葉によって馬鹿になりましょう。
8月10日
血を流すことがなければ
へブル9:15-22
武安 宏樹 牧師
「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」キリストの死に様です。気をつけるべきことは、血を流すこと自体がほめたたえられているのでなく、聖なる神の前に、罪を犯した人間が血の価を求められていたから(レビ17:11)、動物の犠牲でも人の善行でも到底払えぬ、贖い代を唯一満たすのが主の血で、それによって信者と「契約=遺言(譲渡)」により、血の実印が刻まれたのです。「血判状」は指を数㍉切り押印だけ、いのちを棄て血を注ぐ重みは明らかです。「何故に日本人は短刀を以て腹を裂き生命を棄てるか。生きて辱しめを受けない廉恥の心と、自分の手で自分の命を絶つ勇気を認めなければならないであろう。徳川時代において切腹は最高の責任の取り方、あらゆる不名誉を償って余りある好意と思われたのだ。」(奈良本辰也「武士道の系譜」)封建制に根差す武士道は幕末で終わったようで、維新後の和魂洋才、戦後の民主主義下でも、高度成長期は会社のため腹を切り、全共闘世代は内ゲバ、バブル期は浮かれ、今日の景気低迷期には不安とスピリチュアルに訴え、権力が国民を縛ろうと。何のために血を流すべきか、国のためか自分の名誉か日本人は迷っています。武安 宏樹 牧師
「新しい契約」とはキリストが私のため、それだけでなく「私たち」のために、血を流してくださって、誰のため生きているか迷いを打ち破ってくださった。欧米人は先ず自己の確立からという方向性、十戒のタテ→ヨコも同様ですが、日本人は島国で村社会の集合体ゆえ、社会的関係から自分の位置を定めます。だから人を生かし地域に証しを立てるため、大和魂でなくキリスト魂を以て、犠牲をささげる。そのために贖い主に献身するという順序も成立するのでは。「私たち」が何を指すかが重要で、日本人は見える国家や会社や家族や友人や、地上の教会を見ようとしますが、神の国の実現のために自分の存在があると、自分が一人前になってから奉仕というより、その奉仕がどうしたら神の国の発展に役立つかという順序で、信仰を考えてもよいのではないでしょうか。この神の国について、主イエスは山上の説教(マタ5-7:)にて具体的に語ります。冒頭の八つの幸いは神の国を規定する憲法、折り返しの主の祈りの一人称は、全て「私たち」で、この祈りを唱えるたび地上に御国の実現が近づけられます。私たちは主の血で刻印された作業員、神の国の視野を以て血を流しましょう。
8月3日
良心をきよめて
へブル9:11-14
武安 宏樹 牧師
「しかし」旧い契約と新しい契約が対照されます。入れる者も回数も犠牲も、旧い契約は効果が限定的で、新しい契約までベールに包まれた模型の様です。キリストの犠牲は「ただ一度」「永遠」で、内住の御霊が聖化を完結させます。「死んだ行い」は複数形「生ける神に」は単数形、「きよめて」未来時制で断言的。著者は新しい契約の優越性を力説しますが、裏を返せば読者たちが心の底を、キリストの完全に明け渡すことが出来ず、儀式や善行で心を満たそうとする、捕囚期500年前の預言にかかわらず(エゼ36:)、開かない心の扉がありました。新約で罪の原意に「的外れ」「不法」「咎」があるように、神に背を向けた堕落後、人間は罪に罪を重ねます。「だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら」(黙3:20)この扉に取っ手が神が叩く外側には無く、内側にしか存在しません。私たちは初めてキリストをお迎えする時に、家の玄関にある重い扉を開いて、いったんお迎えしたら同居家族ですから、その扉は最後まで開閉しませんが、家の中に一つ一つの課題ごとの部屋があり、聖霊が数々の扉を叩いています。主は私たちの信仰成長の度合に応じて、扉を開けさせる訓練を与えています。武安 宏樹 牧師
以上は聖霊の働きによるので、深層心理から変えようとされる特徴があり、旧約時代は傷のある人間の力で律法を行っていたのが、新約時代は不完全な私たちを覆う聖霊が御言葉を行わせてくださいます。過去・現在・未来の罪は、赦されて重荷も取り去られましたが、心には肉と霊の戦いを経てきよめられ、パウロ曰く「私は本当にみじめな人間」ながら「神に感謝します」(ロマ7:19-25)世の人間から見れば理解しがたい霊性が存在します。もはや文字レベルでは、彼に責められるところは無かったでしょうが、聖霊の支配に与ったパウロは、100点でも満足できない。それは自分の動機や愛が汚いと痛感するからです。そこで心の扉を開放する。罪深さを痛感しながら永遠の契約に感謝なのです。本日も聖餐をもって主の肉と血に与り、天に居られるキリストを見上げて、聖霊が働かれて主の臨在により、私たちに主の肉と血が共有されてきます。私たちの良心は自分の正しさに頼ろうとしますが、自分で証明するではなく、時間と共に主が自分だけでなく隣人にも証明してくださいます。心の扉を、開けるたびに私たちの心は単純な信頼へ、明るく導かれていきます(伝3:7)。