愛宕山教会・今村キリスト教会

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礼拝メッセージ

6月15日

賛美命令
詩編150:1-6
武安 宏樹 牧師
詩篇の中心主題は神を賛美すること、神の栄光をたたえることにあります。1篇は「幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず~」善と悪を白黒つけつつ、信者の歩むべき道を正しく教えることから入ります。主イエスは十戒と聖書全体を①主なる神を愛する②隣人を愛する、二原則に、まとめました。聖書は簡潔な教えでその通り生きるなら人生はシンプルです。以上が私たちの人生の指針なら、最終の150篇で10度「神をほめたたえよ」は、人生の究極的な目的です。最初と最後の「ハレルヤ」=「主をほめたたえよ」で、十戒や十分の完全数10に三位一体の完全数3を足して、13回「ほめたたえよ」。「人に関わる議論は姿を消し、自分の幸福への希望も視野から消え去って、ひたすら神を仰いで、ほめたたえることで堪能する。これが聖書の詩篇の行きつく境地と感銘させられる。技巧尽きて、感興果てて、作為消えて、その高雅さは輝く。」(小畑進)「感謝と賛美とは互いによく似ています。私が感謝する時は、神が私にしてくださったことに対し神に栄光を帰しています。ところが賛美している時は、神ご自身に対して、神に栄光を帰しているのです。」(O・ハレスビー)

詩篇最終節「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」は人生の目的であり世界と宇宙の目的です。私たちは3~5節の音楽的な部分だけで、1節「だれを」2節「なぜ」6節「だれが」賛美の広がりが欠落していませんか。そこで感謝を足掛かりに賛美へ昇り、自分の周辺を手あたり次第感謝しつつ、「すべてのことにおいて感謝」(Ⅰテサ5:18)の困難に直面しつつ、ただ天に在る「神の聖所」を見上げて、私たち礼拝する地上の教会が天の直轄領だと覚えて、ここから全世界に御力が及ぼされることを、神の偉大さを畏れて手を伸ばす。感謝できるまで神にすがり、感謝できないと神に反抗し、聖霊に抵抗しつつ、自分のやり方や神学にこだわる罪に向き合い、砕かれて視野が拡がるのです。すると自分の見方以外に周囲に配慮し、天から神の視点の如く俯瞰的に見て、自分が何者で何をしようとしているのか、何と戦っているのか見えてきます。感謝尽きどうすればよいか判らない時に、主をほめたたえる最高の訓練です。私たちに下った聖霊の力は賛美へ。天における神の臨在に一気に昇ります。賛美は鎖から解き放ち罪と世と悪魔に勝利する、全人類への力強い招きです。
6月8日
わたしの証人となります
使徒1:8
武安 宏樹 牧師
本書の著者はルカなので同福音書24章の続きで読むと、いろいろ見えます。空の墓で復活を信じた婦人たちを笑い、そんな馬鹿なとダッシュするペテロ、エマオ途上で力無く歩くも主の訪れに築かぬ二弟子、後に一同は幽霊と錯覚、懇切丁寧に主が聖書を体系的に語られて、ようやく悟る察しの悪い男どもで、以上は聖霊が注がれる以前の頭&心&体が分裂した、頑なな人間の姿ですが、それでも十字架を経て自分たちが大馬鹿者と気づく、彼らなりの応答でした。主は語ります「いつとか、どんな時」「エルサレム、ユダヤ~地の果てまで」など時間と地理的限界は人のためにあることを。堕落以降の罪ある人間と世界は、神と人との間を引き裂き、人と人とが憎しみ競い合い、国家&民族&宗教間でいがみ合い、経済格差と自然破壊と無責任な政治で国際社会を破壊に導き、人間は霊と精神と肉体が分裂して不健全に。この罪の悲惨さを現したものが、バベルの塔でした(創11:)。世界の叡智を結集すれば神にさえ手を伸ばせる、されど方策は富める者が貧しい者から搾取し、持てる層の野望の実現でした。神の摂理に対する挑戦であり、時が来るまで神は地上をバラバラにしました。

聖霊が最初に臨んだ「人」は主イエス(マタ3:16)、私たちの模範となりました。皆さんも三位一体の主の御名で聖霊を受けて、力となって内に住まわれます。ペンテコステにおける降臨の衝撃は凄まじいものでしたが、罪の分裂と逆で、 今まで自分がいかに神に背を向け罪を犯してきたか、御言葉で気づき悲しみ、悔い改めの御霊が赦しの確信とともに、霊と精神と肉体を一致に導きました。 直後に世界中の言語で一同語り酩酊と錯覚も、一変したペテロ曰く脅迫説教、いや「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」罪の病解放の恵みの説教です。本日の「あなたがたは力を受けます~わたしの証人となります。」動詞二つは、能動と受動の間の中態です。神に背を向けては悔い改め様がありませんので、聖霊が降れません。御霊という大きなボールを両手伸ばし受け取りましょう。与えるのは神ですが受け取るのは人の側です。そして証人となる決心が必要。パウロは神の霊に抗してキリスト者を迫害も、倒され盲目の後に御声を聞き、立ち上がり、「キリストが私のうちに生きておられる」(ガラ2:19-20)これこそ全て統合され刷新される生き方。語順「あなたがた」「なります」「わたし」です。
6月1日
ただ一度で
へブル7:26-28
武安 宏樹 牧師
「ただ一度で」本書で愛用の語で、究極&完結&繰り返し不要と強調します。御自分のいのちを投げ出して信じる者全ての罪を負い、死からよみがえられ、今も生きて世界を動かしておられる方。時間も能力も人種も国境も闇の力も、限界が存在しません。私たちは「ただ一度で」自分の栄光や人への救いを定め、財産を築いた経験がありますか。名選手も不祥事や不調で名誉を台無しにし、好敵手に座を狙われ、どんなに努力してもやがて築き上げたものは朽ちます。「継続は力なり」で努力し続ける者は金も名誉も信用も得られますけれども、それでは頂上の見えない山を登り続けるように、心の平安は得られません。実際にヘブル人は登山のように律法を遵守し、存在意義を保ってきましたし、信徒たちはオチのない旧い霊性に戻されかけていました。私たちはどうか?救われても主の前に罪を犯します。贖いの御業が過去&現在&未来の罪まで、完全であり、いわゆる義認や聖化についてただ信ぜよと頭では判っていても、心がついていかず同じ罪を犯していませんか。「自分の罪を告白するなら~」(Ⅰヨハ1:9)金言を実践しても、いっこうに聖められない失望はありませんか。

27節の主語に「イエスは~」が繰り返されます。私たちの状態がどうなのか、依然として罪深いか少しはマシなのか、そういったことは問題になりません。「ただ一度で成し遂げられた」神の側の事実だけ要件であると語っています。私たちの負債と弱さ全てに、主は十分すぎるほど恵みを既に注がれたのです。本当の罪は同じ罪を繰り返すことではなく、この最高の犠牲に目を留めずに、自分のことばかりに囚われて、落ち込んだり拗ねたり八つ当たりすることで、主は私たちの弱さ全て御存知で、救いに選び教会に仕える聖霊を与えました。それで何が不十分か?罪深くて何が悪い!罪の縄目から解放されたのです!以上は開き直りではなく、神の恵みを大真面目に受け止めた結果なのです。私たちは先ず恵みを受け止めるよりも、自分の行いで完結していませんか?律法は信者のガイドラインですが、善行しようと努めると常に罪を犯します。「罪の報酬は死です」(ロマ6:23)これは負のスパイラルに私たちが死ぬべきで、主と共に死ぬと永遠のいのちが躍動するメカニズムを、パウロは力説します。私たちは死と復活の聖書的根拠に生きます(Ⅰコリ15:)。壁を壊した方に栄光!
5月25日
永遠の祭司
へブル7:20-25
武安 宏樹 牧師
「対立する二者の間に立って、事態が好転するようにうまくとりはからう。その場の気まずい雰囲気をまとめる。仲立ちをする。」(goo辞書『とりなす』) 人は独りでは生きていけません。子どもが家で兄弟喧嘩すれば親が間に入り、学校だと先生や級長など信頼に足る人に言って、調停や和解をお願いします。昔の結婚式は仲人を立てました。事故やもめ事では警察や保険屋が入ります。社会には成文法だけでなく支える倫理観が必要ですが、残念ながら世の中は、人間が孤立を深めて、某国「MAGA」などと自己中心と敵意が満ちています。現代に神と人との間で罪深い世をとりなす、真の祭司が必要だと痛感します。世から見放された人に対し、家族も諸機関も無限に助けてくれはしません。親も人間なので忍耐に限界があるし、不可避なことは年老いて死ぬことです。理不尽にも家族財産全て失い、最も信頼する三友人に愛想尽かされたヨブは、人はまだしも、最後の砦の神に見放されたら生きていけないことを知って、「仲裁者」(9:33)「保証人」(16:19)「贖う方」(19:25)奇しくも大祭司イエスを、地上で弱い私を弁護し、天の神との間にとりなす存在として求めていました。

かつてヨブは非の打ちどころ無い信仰者として、神と親しい交わりに与り、理想的な歩みをしていましたが、父自ら手を放したことで闇でうろたえます。三友人は因果応報論で突き放すのみ。本当に必要なのは苦しみを受け止めて、手をつないで父のもとへ連れて行く人ですが、彼は最初は手を小出しにして、やがて真っ直ぐに、しまいには指先まで、天に向かって手を上げ続けました。未だ見ぬキリスト信仰によって、神の答えを待ち続けたとは過言でしょうか。かくて永遠の祭司を信じて、彼は孤独と反抗の罪を悔い改めました(ヨブ42:)。親も友人も組織も宗教も、時に己を神と偽る国家も一時的な解決は与えても、真に豊かな人生と死後の保障は全くできません。何をアテに生きていますか、人か金か自分の人生経験か?「完全に」(25節)は「永遠」「決定的」換言可です。私たちは御名によって自由に祈りますが、旧約の輪番制の祭司に願うような、手軽な求め方をしていませんか。「いつも生きていて、彼らのためにとりなし」大祭司イエスは求めても求めなくても、常に天で御手を動かしてくださり、私たちを御霊によるうめきをもって、隣人と社会をとりなす器とするのです。